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zoom RSS 日本史の「落胆」01 勝てば官軍、でもないゾ

<<   作成日時 : 2018/09/30 00:01   >>

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「勝てば官軍 負ければ賊軍」 この言葉は一般的に、
〜何事も強い者や最終的に勝ったものが「正義」であり、負けた方は
  「不正義」である〜
 このくらいの意味で解釈されているようです。

しかし、この言葉が世の中の真実を正確に衝いているとも言い切れなくて、
むしろこんなニュアンスも隠されているようにも感じられます。
〜勝者に「正義」のレッテルが張られるのは、一種の「お約束」に過ぎず、
  また実際の中身とレッテルが一致しているとも限らない〜


もし、これが下衆の勘繰りに過ぎず、「勝てば官軍」が動かしがたい「真実」
だと受け止めるなら、たとえば、戦国時代の勝者・羽柴(後に豊臣)秀吉
重ねた苦労?の意味も分かりにくくなってしまいます。
主君・織田信長(1534-1582年)が、家臣・明智光秀(1528?1582年)に
よる謀反「本能寺の変」によって呆気なく倒れるなどは、秀吉にとって
まったく想定外、ちょっと気取って言うなら、まさに「青天の霹靂」の出来事
でした。

しかし、この「アクシデント」を実に手際よく処理したのが、秀吉で、主家・
織田家の後継者たち(信長の息子達)の出番をなくすことにも、また当面の
最大の競争相手である徳川家康(1543-1616年)の行動に歯止めを
かけることにも成功し、さらには同僚たちから頭一つ抜け出た存在になる
ことができました。
要するに、ここにおいて秀吉は自他ともに認める「最終勝者」となったとい
ことで、ここまではまことに順風満帆でした。

もし、「勝てば官軍」が人間社会の真実を示しているとしたら、「勝った秀吉
こそが正義」ということですから、その後は何の苦労?も必要なかったはず
ですが、しかし実際には秀吉はこの後に大いなる苦労に振り回されています。

「下層出身の出世者」・・・信長家臣時代までの秀吉は、これを自分の
キャラクターとしてウリにしていました。 つまり、
〜ここまでの出世ができたのは、ひとえに信長様の引き立てによるものです〜
こうした姿勢をいささか大仰に示すことで、強い猜疑心を持つ信長の
心理にも、また出世競争に燃える同僚ライバルの心中にも、またそれだけ
ではなく広く世間様に対しても、「控えめで穏やかな秀吉」像を植え付けて
いたわけです。

ところが、数多の経緯を踏んだことによって、他ならぬ「下層出身の出世者」
に過ぎない自分が、事実上の「天下のトップ」の座に収まることになりました。
ここで、世間様が「勝てば官軍」の法則?を素直に受け入れてくれるなら、
何らの問題も生じません。 
しかし、そうは問屋が卸してはくれませんでした。

秀吉・出身地の尾張者でさえ、こんな受け止めになります。
〜いっくら出世したとはいってもよぅ、昨日まで信長坂にヘイコラ頭を
  下げとった家臣がよぅ、今日からいきなり天下人だなんて、そんなもん
  ちゃんちゃらおっかしいでいかんがや〜


敵・同僚・世間様が抱くそんな心中を肌で感じる秀吉は秀吉で、
〜これまで「下層出身者」であることをウリにしてきたのは、キレやすい
  信長様に睨まれぬためだった。 しかし、今となってはそれが幾分
  裏目に出ている印象もある・・・早速にカイゼンしなくっちゃ〜


そこで秀吉は
〜民を心服させるためには、ワシが天下人にふさわしく「上流社会出身者」に
  変身?する必要があるかもしれん。 しかし、それはさほどに難しくはない
  はずだ。 なんでなら、ワシには腐るほどの財力があるでよぅ〜


そこで・・・(但し、これが史実かどうかはイマイチ不明ですが、)
「貧乏公方」とも揶揄された時の第15代将軍・足利義昭(1537-1597年)に
こんな話を持ち掛けました。 (フィクションだとする説もある)
〜義昭クン、どうだえぇ、ワシを養子にせんかぁ?〜
大胆かつ率直な交渉態度です。

しかし、武家の棟梁である将軍・義昭はこれをきっぱり断ったとされて
います。
一介の「成り上がり者」に対等の口を利かれるのがシャクだったせいも
あったのでしょうが、このへんの気概にはさすがで、まあ「腐っても鯛」と
評価すべきかもしれません。

豊臣秀吉像05 秀吉三法師51













 豊臣秀吉像/三法師(信長嫡孫)を肩に抱く秀吉

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しかし、秀吉とて、新たな「天下人」であることを認めさせるのに必死です。
こちらに見込みがないと判断するや、即座に方向を変え、今度は名家中の
名家「近衛家(藤原氏)」へ狙いを付け、同様な話を持ち込みました。

今回は「養子」ではなく、財産相続権などを持たない「猶子(ゆうし)」という
立場でしたが、結果としてこちらは成功し、晴れて「藤原秀吉」の誕生
(1585年)を見たわけです。
もちろん、この経緯には秀吉側からそれなりの「御礼」も動いたことでしょう。

この事例などは、「勝てば官軍」とは言うものの、その勝利によって「正義」の
存在が認められるわけではなく、現実の人間社会では結局のところ、多くの
人間を納得させるだけの「正当性」を必要とすることを如実に物語っています。
秀吉の場合なら、「藤原氏」を名乗ることで、その「正当性」を主張した
ということです。

しかし、世間様はそれくらいのことでは「正当な天下人」として受け止める
甘チャンではありません。
むしろ「いささか不愉快な成り上がり者」くらいに見ていたことが、同じ時代の
こんな落首からも想像できます。
〜末世とは別にはあらじ木下※の猿関白を見るに付けても〜
※「木の下」と秀吉が使った名字「木下」を掛けている。
 
現代の尾張者(つまり、筆者)が大胆過激な意訳をするなら、
〜あの成り上がり者が、いまや関白だってよぅ、まったく世も末だぎゃあ〜
といったところでしょうか。

もっと掘り下げて、念入りな悪口を並べるなら、
〜昨日まで信長様にペコペコしとったアイツがよぅ、今日から天下人だってか?
  「ヘソで茶を沸かす」って、このことだでぇ!〜
〜ええきゃぁ、アイツはよぅ、ドサクサに紛れてよぅ、主家・織田家を
  乗っ取ってまったタダの「恩知らず・不義理者」に過ぎんのだゼ〜
〜今でこそ、天下人だって偉そうに名乗っとるけづよぅ、なにぶんにも
  お粗末すぎる出自のために、どえりゃあ大枚の金を積んで、藤原の名で
  粉飾せにゃならんかったげな〜


散々な言われ方ですが、多くの人々を納得させられる「正当性」を示すことが
できないと、「勝てば官軍」とはならに、逆にこのように「勝っても賊軍」もどき
の扱いをされてしまうこともあるわけです。

そりゃあそうかもしれません。
この辺りの経緯を現代のイメージに直すなら、さしずめ
〜実質無政府状態(室町幕府の衰退)という大混乱の中で、たまたま
  数多の合戦(私闘・抗争)に勝ち残った者(秀吉)が、「今日からはボクが
  総理大臣(天下人)になるからネ」と、一方的に宣言した〜

こんな成り行きを、「ああ、さよですか」と素直に了解できる人間がいたら
お目にかかりたいくらいのものです。

ましてや、信長健在の時代の秀吉は、信長の癇癪が暴発することのないよう、
あくまでも「信長様に引き立てられた下層出身の出世者」というイメージを
徹底していました。
つまり、「天下人」には無縁の場所に身を置いていたということです。
そのことを考慮するなら、世間様が「ウーム、やっぱ認め難いッ」となるのも
無理ないのかもしれません。

世間様のこうした空気を一番肌で感じていたのが、他ならぬ秀吉自身
でしたから、「名家(藤原氏)」の威を入手することで、ドロ縄式の
「正当性」演出に取り組んだわけです。
しかし、先の落首を見る限り、「勝てば官軍」の完全実現までには至らな
かったと言えそうです。

そこで、現代の尾張者(つまり、筆者)のツイート。
〜藤原を名乗るには、どえりゃあ金使いだったらしいけど、ほんなら、
  新姓「豊臣」を、朝廷は最初幾らで売り出したんでやぁ?〜

念のためですが、新姓「豊臣」は天皇から下賜されたものであり、
ネット・オークションで売買されるものではないようです。



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