日本史の「列伝」18 突然死と長っ尻の第11代

江戸幕府第10代将軍・家治(1737-1786年)の世嗣・徳川家基(1762-1779年)
は、幼年期より聡明で文武両道の才能を発露していただけでなく、成長
するにつれ政治にも大きな関心を寄せるようになっていました。
ですから、8代・吉宗→その子9代・家重→その子10代・家治と続いた
江戸幕府将軍職は、何事もなければ、血筋の流れの通りに第11代には
家基が就くはずでした。

しかし、その「何事か」が起こっていまいました。 
~鷹狩りの帰りに立ち寄った品川のお寺で休息していた家基が突然に
  体調不良(腹痛)を訴え始めたので、供の医者の薬湯を服用したものの、
  治まる気配もないために帰路を急いだ~


その有様に遭遇した父・家治は大きな衝撃を受けたのでしょう。
家基の快癒を願って、治療と祈祷の二本立て、つまり尽くせるだけの手を
尽くしました。 
なにせ、後継将軍予定者ですから当然の対応です。
ところが、~その甲斐なく、発症からわずか二日後に家基は急逝~

こうして、今風なら満16歳(享年18歳)の若さで、若殿・家基は
「第11代将軍予定者」のまま、突然の死を迎えました。 
こんな経緯を踏まえて、この家基には「幻の第11代将軍」という言葉が
冠されることもあるようです。
自分の後継者を突然に失ったのですから、父・家治が言葉にならないほどに
ガックリ落ち込んでしまのは無理もありません。
アナタが「千円札」を落とした時より、もっと重度の喪失感と言えば多少は
分かりやすいでしょうか。

さて、それから二年。
世嗣を失い、また他には男子もいなかった現職将軍・家治の元へ、
ちゃっかり自分の息子を養子として送り込んだ人物がいました。
送り込んた張本人の名を、一橋家の徳川治済(はるさだ・はるなり/
1751-1827年)といい、送り込まれた息子は当時豊千代(後の家斉)との
名でした。
もちろん、これには「後継将軍には豊千代」・・・こんな目論見があっての
ことです。

そして、七年後に第10代・家治が亡くなる(1787年)と、後継第11代将軍に
就いたのは、案の定治済の息子つまり家斉(1773-1841年)でした。
若い家基の不自然な?「突然死」がなければ、今日において家斉が将軍に
なることはなかったわけですから、こんな憶測も流れたようです。
~若い家基の突然死は暗殺(毒殺)だったのでは?~

確たる証拠があってのことではありません。
そんなもんがあるのなら、憶測の範囲に留まっていることもないわけです
から、理屈としては無くて当然なのです。
だた、そんな疑心を抱いた一人に、将軍に就いた家斉本人が含まれていた
可能性が無いわけではありません。

徳川家基51 徳川家斉暗殺51









徳川家基/家治嫡男・家基の暗殺

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
 にほんブログ村

というのは、家斉は家基命日の墓参りを、その後晩年に至るまで律儀に
ず~っと続けているからです。
それも、自らが出向けない場合には、若年寄を代参させるほどの熱心さ
でした。
養子になったとはいうものの、直接の血縁関係にあるわけでもない先代
将軍の子供に対して、ここまで敬意を払うのは尋常なことではありません。

こうしたことがあって、平たく言うなら、家斉が心の底ではこんな疑念を
抱いていたことも考えられるわけです。
~将軍家・家基クンは、ひょっとしたら、ボク(家斉)を将軍の座に就けよう
  とした父ちゃん・治済によって暗殺された・・・のではないだろうか?~

万が一にもそうだったとしたら、将軍の座は家斉にとっていかにも「居心地」
の悪いものだったはずです。

そこで、そんな思いから出た具体的な行動が、供養?というか鎮魂?と
いうか、「命日の墓参り」だった、というストーリーも・・・ただし、これも
状況証拠による憶測にすぎません。

では、当の父ちゃん・治済とは、いったいどんな人物だったのか?
そもそも自らの政治力をもって自分の息子を「第11代将軍」にするだけの
力も備わった居ましたし、その上に「将軍実父」としての権威?も重なって
いるのですから、幕政に対しては隠然たる影響力を持ち続けたようです。

家斉が将軍に就任するや、先代家治の信任が厚かった老中・田沼意次
(1719-1788年)を、反田沼派の巨頭・松平定信(1759-1829年)を
動かすことで罷免に追い込み、併せて田沼派の一掃に打って出るなどの
果敢な政治行動も、そうしたパワーが発揮されたものでしょう。
ちなみに、この治済と松平定信はともに8代将軍・吉宗の孫に当たります。

そしてその二年後には、その老中・定信に向けて治済・家斉父子はこんな
要求をぶつけました。 要するに、
~将軍(家斉)の実父である治済を、「大御所」待遇にすべきである~ 
ちなみに、江戸時代の「大御所」、将軍職を実子に譲った後も、政治の
実権は手放さない人物に対する称号ということになるのでしょうか。
ともかく、これには定信もこんな思いに?
~よりによってこんな時期に、ほんとマイっちゃうよなあ~

なぜなら定信は同じ時期に、光格天皇が実父に「太政天皇」の尊号を
贈ろうとした、いわゆる朝廷問題「尊号一件」を抱えていたからです。
朝廷と幕府に対して異なる裁定は下せませんから、定信は尊号を要求
した朝廷・幕府の双方に、つまり光格天皇にもまた治済・家斉父子にも
「ゼロ回答」を示さざるを得ませんでした。

そうなると今度はこの扱いに腹を立てた治済・家斉父子側の逆襲です。
結局のところ、老中・松平定信は容赦なく失脚に追い込まれるハになり、
今度こそホントに「マイっちゃった」わけです。

父・治済は黒幕ともいうべき存在で、幕政に対しては隠然たる政治的
影響力を保っていたのは確かな事実ですが、その上にその生活ぶりも、
ハンパなくど派手で贅沢三昧だったといわれています。
また子・家斉は上記の通りに特異づくしの将軍だったということから
すれば、父子ともにある種の怪人物だったとの表現ができるのかも
しれません。

ともあれ、「幻の第11代将軍」家基の突然死は、先代・家治の血筋を
途絶えさせたばかりか、御三卿である一橋家の治済・家斉父子によって
老中・田沼意次、またその後の老中・松平定信の政治生命にも影響を
与えたことは間違いなさそうです。

以下はオマケのクイズです。
~「26/27/28」・・・さて、この数字はいったいなんでしょうか?~
第11代将軍・家斉が儲けた子供の数・・・というのがその答えです。
つまり、男子が26人、女子が27人、そしてその内で成人まで生きた子供が
計28人・・・少子高齢化に悩む現代日本からすれば、なんとも羨望に値する
数字です。

ちなみに、約半世紀(1787-1837年)に渡る家斉の「将軍在任期間」は
江戸幕府・歴代将軍の最長不倒記録になっています。
「子づくり」といい「在任期間」といい、まことに精力グンバツの家斉には
そう言えば「オットセイ将軍」なる異名もありましたっけ。



 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
 にほんブログ村



--直近の記事------------------------
525 日本史の「誤算」09 一帯一路は周回遅れ? 朱子学が遅らせた600年
524 日本史の「大雑把」01 詭弁方便は神仏の十八番? 疑問は捨てなさい
523 日本史の「タブー」08 そして誰もが頓挫した 裸一貫無手勝流の奥義
522 日本史の「信仰」13 ヤマト民族の歩き方 宗教が決める民族の歩き方
521 日本史の「付録」08 ゼ現世は儚し来世は墓無し 墓じまいブーム来る
520 日本史の「トンデモ」01 ゼロ予算で城構えの気迫 民族の特有能力?
519 日本史の「女性」25 従一位なら噂も消せる? 躍起になった裏事情?
518 日本史の「災難」11 改革とミニ科挙と異学の禁 朱子学暴走族の元締?

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • 日本史の「逆転」22 異国・異人に拘った幕末風景

    Excerpt: 黒船来航(1853年)の翌年に日本再来航を果たしたアメリカに対して、 心ならずも「日米和親条約」(1854年)を締結せざるを得なかったのが 時の幕府でした。 長崎「出島」に拠点を持つオランダ国以.. Weblog: ヤジ馬の日本史 racked: 2018-11-07 23:54
  • 日本史の「トンデモ」02 曲学阿世のイチャモン術

    Excerpt: 「林羅山」(1583-1657年)といえば、23歳の若さで徳川家康(1543-1616年)の ブレ-ンに収まったほどに優秀な学者さんですが、反面ちょいとばかりクセの ある?人物でした。 失礼を承.. Weblog: ヤジ馬の日本史 racked: 2019-01-08 15:23
  • 日本史の「微妙」09 素知らぬ顔して意趣返し

    Excerpt: モンゴル高原に居住する遊牧民の有力族長の一人であったチンギス・カン (1162-1227年)が、その他の遊牧民らを統合して創設した「モンゴル帝国」 (1206-1634年)は、その後もさらなる領地.. Weblog: ヤジ馬の日本史 racked: 2019-01-08 15:28