日本史の「誤算」09 一帯一路は周回遅れ?

~シルクロード経済ベルトと21世紀海洋シルクロード~
2014年に中国・習近平総書記が提唱したことで注目を浴びるようになった
この経済圏構想は、通常はもっと簡便に「一帯一路」と表現されています。

さて、その「一帯一路」のイメージが下の世界地図です。
要するに、「一帯」とは中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパに
つながる「シルクロード経済ベルト」を指し、さらには、中国沿岸部から
東南アジア・スリランカ・アラビア半島沿岸部・アフリカ東岸を結ぶ
「21世紀海上シルクロード」が、もう一つの「一路」であり、この広範に渡る
地域における貿易促進を狙った構想です。

自国経済の発展を目論む現代中国政府(共産党)が自己評価をするなら、
おそらくは画期的な構想ということに落ち着くのでしょう。
中国圏を中心として、東南アジア/インド/アラビア半島/アフリカ/
ヨーロッパ/ロシアまでをも包含した広大さという意味では、確かにそうなの
かもしれません。

ところが、当時の中国自身にその気がなかったので、結果としてそれが
陽の目を見ることはありませんでしたが、実はこの構想はとっくの昔の
15世紀頃にはとっくに実現できていたかもしれないのです。
そうでありながら、それが、つまり21世紀の今日になって再登場?している
のですから、今回タイトルの通り、実は~一帯一路は周回遅れ?~なの
かもしれません。
~ええッ!600年も昔ってか?~ そうッ、600年も昔です。

600年前の中国は、「明」の時代になります。
中国では、昔の昔から、強くて競争を勝ち抜いた者が王者、つまり「皇帝」に
なれる仕組みになっています。
もっとも、その評価としては「強い者」ということではなく、「徳ある者」という
建前になっているのですが。

いずれにせよ、天皇になれる者は「天照大神の子孫」のみというルールの
下に「万世一系」を自慢する日本とはまったく異なる文化を持っていることに
なります。
さて、その中国「明国」(1368年)を建国したのは、朱元璋(1328-1398年)
なる人物でした。
後には明朝初代皇帝となり、洪武帝と呼ばれました。

その洪武帝がすぐさま打ち出した政策が、外洋船の建造や民間船舶による
外国との通商を禁じる、いわゆる「海禁令」(1371年)でした。
その背景には、南宋の儒学者・朱熹(1130-1200年)から始まった「朱子学」
という過激な新興宗教?の影響を受けたことと、さらには昔の昔からの
中国の伝統である「世界の中心(中華)」思想にドップリ浸かっていたことが
挙げられそうです。
なにせ、その「朱子学」には「商業(人)蔑視」という鉄則がある上に、
「朝貢」はあっても「貿易」という概念がないのが「中華思想」ですから、
こうなることには一定の理解が及ぶというものです。

しかし、中国自身がこの政策を律儀に遵守し続ければ、反面では「中国は
親分国家/他は子分地域」とする、いわゆる「柵封体制」を現状膠着の
ままに捨て置くことにもなり、折に触れ「我こそがナンバーワン」と吹聴したい
「中華思想」からすれば、ちょっとばかり「痛し痒し」の一面もあります。
中国自慢の「柵封体制」がサビついたままでは、「世界の中心(中華)」で
あるというプライドに傷がついてしまうからです。

こうした背景の中で、明朝第3代皇帝・永楽帝(1360-1424年)は、
洪武帝時代の消極的な対外政策を改め、周辺地域への使節派遣を
積極的な行うようになりました。
念のためですが、諸外国を指す言葉が「周辺地域」という表現になるのは、
「世界の中心(中華)」を自負する国家の辞書には「周辺諸国」という言葉も
概念もないからにほかなりません。

この政策の一環として、永楽帝は大船団を南海諸国に派遣し、朝貢関係の
樹立と示威を行う計画をブチ上げました。
外部との交流が疎遠になると、「周辺地域」自身の中国に対する見方が軽く
なってしまう心配もあります。
おそらくは、こうしたことを防ぐ意味からも、この機会に今一度再認識させて
おこうとする意図があってのことでしょう。

一帯一路51 鄭和01








  中国の「一帯一路」構想/海図を持つ鄭和の像(雲南省)

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こうした事情が重なる中で、1405年6月のこと、南海大船団が組織され、
その指揮を命じられたのが「鄭和」(ていわ/1371-1434年)なる武将でした。
そして、この鄭和は1405年から、死の前年の1433年までの9年間に、なんと
7度に渡る南海大航海の指揮を執ったとされています。
中国が世界へ乗り出していったわけです。

鄭和が指揮を執ったこうした航海は、東南アジア/インド/アラビア半島/
アフリカ/にまで至るメッチャ広範囲に及びました。
こんな説明になっているほどです。
~最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで
  到達した~

下の「21世紀海上シルクロード」の地図にもあるその「ケニア」(ナイロビ)です。
ちなみに、同じケニアでも、マリンディが沿岸部に位置するのに対し、
ナイロビはそれより北西部の少し内陸部に位置しています。

なんてことはない。
このお話は、要するに鄭和の活動が盛んだった15世紀の初め頃の
中国(当時は明朝)は、現代における「一帯一路」構想の、少なくとも「一路」
については実現できていた可能性もあったことになります。
しかし、実際にはそれが実現することはありませんでした。

その原因の部分に、南宋の儒学者・朱熹(1130-1200年)が始めた「朱子学」
という過激な新興宗教?があったことは間違いありません。
そこには「商業(人)蔑視」という鉄則がある上に、さらにもう一つには、
「朝貢」はあっても「貿易」という概念がない「中華思想」が重なっているの
ですから、いかにアフリカまで進出したところで、そこで貿易を行うという発想
自体が持ち得ないわけです。

あるいはこの時に、「朱子学」のセオリーである「貴穀賤金」思想に捉われる
ことなく、当たり前に諸外国との付き合いを遂行していたなら、「一帯一路」
構想はとっくの昔に実現していたことになります。
その意味では、「朱子学」の副作用?によって背負って代償は、中国にとって
とてつもなく大きなものだったことになりそうです。

しかし、その点は日本も同様で、これより少し後の17世紀のことになり
ますが、幕府創立者・徳川家康(1543-1616年)が幕府の公式学問として
取り入れたのも、実は他ならぬ「朱子学」でした。
ここでも、必然的に商業蔑視が基本的なスタンスになりますから、その
せいもあって、後には明朝と同様、海外貿易を制限する「海禁(鎖国)政策」
にカジを切っています。

ただ、中華思想の持主・中国の場合は、日本に比べたら多少複雑なものが
あります。
国家間の「貿易」なんぞはこの世に存在するものではありえないとはしている
ものの、これが「朝貢」という方法なら、喜んで可としていました。
「朝貢」とは、家来として御主人サマである中国皇帝に「貢物」をすることです。

その貢物を受けた側の中国としては、そこは気張って「倍返し」いや実際には
「何倍返し」にもしたのでしょうが、そうした返礼をするのと同時に、
その国(中華思想では単なる地域)に対しての安全を保障します。

中国が攻めないのはもちろんですが、その国(地域)がトラブルに巻き
込まれた場合なぞには、中国はその対策に乗り出す義務を負うわけです。
ですから、「朝貢」とは現代感覚なら中元歳暮というよりは、むしろ
「みかじめ料」に近い感覚になるのかもしれません。

それはともかく、「朱子学」は、「孝」(親孝行)を最高の徳目としています。
それは確かに結構なことには違いありませんが、実はその分「公」に対する
意識が希薄になるという持病も抱えています。

少々乱暴に言い切るなら、
~世間(公)に対する協調よりは、身内(私)の繁栄の方がはるかに大事~
とする理念で、これが現代でも根強く生き残っていることは、中国共産党
幹部などそれなりの権限を持つ人たちの腐敗・汚職ぶりや、また周辺国に
対する近年の横暴極まる領海侵犯などの現状を見るだけで、十二分に
理解できるところです。

さて、そんな歴史の流れの中で、現代中国における21世紀「一帯一路」政策
を眺めるならこんな印象にもなりかねません。
~21世紀中国の「一帯一路」政策とは、本当に貿易構想なのかぁ?~
ひょっとしたら、そこに留まらず、
~むしろ、永楽帝が描いたような「世界帝国」構想に近いことを考えている
  のではないのかぁ?~


もしそうだとしたら、この「世界帝国」の皇帝とは、他ならぬ「中国共産党」と
いうことになるわけです・・・
う~ん、そうしてみると、現代中国がブチ上げたこの「一帯一路」って、ホントに
額面通りに受け止めていて問題のない構想なのでしょうかねぇ?



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