日本史の「災難」11 改革とミニ科挙と異学の禁

戦国の世を勝ち抜いた徳川家康(1543-1616年)は、自ら征夷大将軍と
なって江戸幕府を開き、その公式学問として「朱子学」を採用しました。
理由は明快で、家康自身が目の当たりにした明智光秀(1528?-1582年)に
よる主君・織田信長(1534-1582年)に対する謀反・謀殺や、その後の
豊臣秀吉(1537-1598年)による織田家乗っ取りなどが、間違っても
徳川家には起こらないようにすることが目的でした。
「朱子学」は、親に対する「孝(行)」や主君に対する「忠(義)」を最も重視
するため、この要求にフィットしていました。

また、家臣の謀反は幕府に限らず諸大名にとっても「あって欲しくない」
ことですから、こちらもまた積極的に取り入れるようになり、後世から見れば
「江戸時代は朱子学時代」といえるほどに広く浸透していきました。
そうした傾向は実際に政治を運営する幕府中枢の人材の中には、
「朱子学原理主義者」?と呼びたくなるような人物まで生んでいます。

ちなみに朱子学とは、孔子サン(前552-前479年)が始めた「儒教」を基に
して、ずっと後の時代の朱熹サン(1130-1200年)が完成させた学問?宗教?
で、いわば「新儒教」ほどの位置付けになります。
この「新儒教」は「(原)儒教」とは、いわば似て非なるもので、何かにつけ
「(原)儒教」より一層に厳格な思想になっていることが特徴です。

さて、そうした思想に固まっていた人物の一人として、江戸中期に幕政を
与った老中・松平定信(1759-1829年)の名を挙げていいかもしれません。
八代将軍・徳川吉宗(1684-1751年)の孫に当たる超エリート官僚でもあって、
そのせいか、爺チャンの「享保の改革」(1716-1751年?)を見倣うように
「寛政の改革」(1787-1793年)にも取り組みました。

原理主義からすれば、たとえば人間を「士農工商」という身分格差の中に
置くことも正しいことになります。
なぜなら、「士」は「官(僚)」であり尊く、「農工商」は「民(間人)」に過ぎない
から卑しい、つまり「官尊民卑」を是としているからです。

そうすると、士でもない民(農工商)が御政道を批評・意見を述べたりする
ことは、言語道断の振る舞いということになります。 なぜなら、
~民の上に立つ「士」にミスはあり得ないのだから、御政道は常に正しい
  わけで、その正しいことに批判を加えるのは間違った行いである~

つまり、こうした考えになるからです。

これで、ボッコボコにされた一人が著作「海国兵談」(1791年)の中でこんな
意見を述べた自称・六無斎※こと、政治論者の林子平(1738-1793年)でした。
※「も無し 無し無し版木無し も無けれどにたくも無し」と自嘲。

~およそ日本橋よりして欧羅巴(ヨーロッパ)に至る、その間一水路のみ~
要するにこんな提言でした。
~海は世界に繋がっているのだから、いずれ外国(この場合はロシア)が
  我が国にやってくるのは間違いない。  よってもって、現在のノーガード
  状態を見直し、海防を一層充実させる必要があるのではないかしらん~


ところが、「朱子学原理主義者」?松平定信の頭には、これがカチンときた。
~部屋住みの人間が何を偉そうに! ただちに発禁! そいでもって
  版木もすべてを没収・処分じゃ!~

これが「六無斎」が嘆いた「版木無し」に当たるわけですが、ともかく書物の
内容そのものよりも、身分なき者が「御政道」に口を挟んだことを問題にして
いるのですから話が噛み合いものではありません。

また「商業(人)」についても、「(原)儒教」の孔子サンは「商売するよりは
学問をした方がよろしいゾ」の程度だったのに対し、朱熹サンの「新儒教」
つまり朱子学ときたら、「商売なんてする者は最低最悪の輩であるゾ」・・・
こんな按配で捉えています。
そのため、こうした明快な割り切り、はたまた厳格さに惹かれれば、必然的に
「朱子学原理主義者」?に近づいていく傾向があるわけです。

この「商(業・人」」に対しては、定信の生の声?が残されています。
~商は詐なり~ (何かを作る農や工とは違い、何も作らない商業は一種の
  詐欺行為に他ならず、それに携わる商人なんぞは人間のクズである)
随分と過激なポリシーですが、ここがまさしくサラブレッドの血筋にある
「朱子学原理主義者」?の面目躍如といったところでしょうか。

松平定信55 林子平51













朱子学原理主義者?松平定信/「海国兵談」著者:林子平

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ にほんブログ村

「原理主義」で物事を考えると、そこから逸脱した思想・考え方はすべて「悪」
という扱いになります。
早い話が、それ以外の考えは世の中のルールを乱す邪悪な思想であり、
そうした考え方を持つ者はすべて極悪人というわけです。

ですから、定信は「士農工商」の身分階級を絶対視し、「商」なぞには見向き
もせず、祖法通りに農業重視の姿勢で「寛政の改革」に取り組みましたが、
結果的にはあまり成功したようには見受けられません。
必ずしも実情に合った方法ではなかったということでしょうか、

また、「祖法第一」もまた、朱子学原理主義者?にとっては必須の?
セオリーになっています。
御先祖様が採用していたルール・やり方(すなわち祖法)に改善や改革を
加えることは、とりも直さず御先祖様が低水準の活動しか営めなかったと
いう、いわば御先祖を下に見るという解釈に繋がるため、つまりのところは
「祖法第一」(何事にせよ祖法通りが正しい)との結論に落ち着いてしまう
わけです。

こうした「朱子学イノチ」?の姿勢は一種の「学問思想統制」にまで突き進んで
いきました。 「寛政異学の禁」(1790年)がそれです。
簡単に言えば、~「朱子学」以外の学問は認めないゾ~という姿勢ですが、
もっとも、これは幕府の教育機関である「昌平坂学問所」では原則ダメと
いうことであり、日本国中を対象にしたものではありませんでした。

しかし、この「禁」の背景には、朱子学が衰退傾向を見せていた、という
いささか切羽詰まった事情も確かにあるにはありました。
ですから、最近イマイチ元気のない「朱子学」を再興?させるためのテコ入れ
だったとも言えなくもなさそうです。

そうしたテコ入れは、いわゆる「官吏(役人)登用試験」の試験科目を朱子学
だけに絞って行った姿にも現れています。
~本場の儒教社会に「科挙」試験はあっても、我が日本にはない~
これでは「朱子学原理主義者」?の肩身が狭い。
そこで、このいわば「ミニ科挙」?システムを採用したのでしょう。

でも考えてみれば、平和江戸期の日本には、「科挙」に代わる独自の
システムをすでに導入していたハズです。 血筋であり家柄です。 
俗に~家老の子はカエル(違ったッ!)家老~と言われるシステムです。

他ならぬ定信自身が、かつての将軍のその孫という「血筋」にあり、しかも
将軍家の親戚という「家柄」にあって老中の座に就いているのですから
このシステムを知らないはずはありません。
でもそこは根っからの「朱子学原理主義者」?ですから、我が国は我が国で
本場に負けないような人材選抜システムを整えるべきだと考えたのでしょう。

しかし、この定信の目論見が歓迎された様子も窺えませんし、ましてや
成功を収めたようには見えません。
その理由の一つに、日本民族にはその昔から「競争を嫌う」性癖が備わって
いたことも挙げられそうです。
いみじくも聖徳太子が指摘している「和を以て貴しと為す」というモットーです。

~血筋や家柄という身分差は、それはそれとして受け入れているのだから、
  あとのすべては「和」(みんな仲良く)でやっていけばいいことじゃんか・・・
  いまさらどこに競争なんぞを仕掛ける必用があるのじゃ、ええぇ!~

何事につけ生死を賭けた競争が欠かせなかった戦国時代とは違って、
平和が続く江戸期には、おそらくはこうした「時代の雰囲気」も広がり始めて
いたハズです。

そうだとしたら、小難しい「試験」つまり合否を巡る必死の競争を復活
させようと目論んだところで、これは「時代錯誤」に他なりませんから、
世間が歓迎するハズもありません。

ところが、「朱子学原理主義者」?である松平定信は、世の中のすべてを
「朱子学仕様」にしておかないことには、尻の据わりが悪くてなにかしら
落ち着かなかったのでしょう。
そこで、朱子学を最重視させ、それ以外の学問を認めない「寛政異学の禁」
や、本場に倣った「ミニ科挙」?システムを持ち出したようにも映ります。
肝心要の「朱子学」に凋落傾向が見えることに、いささかの焦り心を抱いて
いたのかもしれませんねぇ。

そうそう、尾張者の世界ではこんな「焦り心」を発生させてしまう可能性が
あることを思い出しました。
胃の検診写真を見ていた医者が、表情も固く患者に向かって、
~うーむ、・・・アナタの胃はイガンで(いま)す~ 

面と向かってこんなことを言われちゃったら、それこそモロに焦り心です。
ところがギッチョン。 「歪んでいる」ことを、時として「いがんでいる」と発音
することもあるのが尾張言葉なのです。 
ですから、ミナサンも尾張者の医者の診断を受ける際には、あらかじめ心の
準備体操をしておいてくださいね。


 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ にほんブログ村

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • 日本史の「トンデモ」01 ゼロ予算で城を構える

    Excerpt: 「城」という言葉についてはこんな説明がされています。(Wikipedia) ~中国における城とは、本来城壁のことを意味し、都市や村など   居住地全周を囲む防御施設を指すことが多い~ つまり、多.. Weblog: ヤジ馬の日本史 racked: 2018-08-26 07:27