日本史の「もしも」12 会津藩って何者ですか?

幕末の一時期の政治は、実質的に以下の三人のスクラムによって運営
されていました。
○一橋家・徳川慶喜(1837-1913年/後の15代将軍)
○会津藩・松平容保(1836-1893年/慶喜の又従兄弟※親同志がイトコ)
○桑名藩・松平定敬(1847-1908年/容保の実弟)

その頃、京には尊王攘夷派の過激志士達が集まる様子を見せていたことも
あって、個々の頭の字を採って「一会桑政権」と呼ばれたこの連帯は、京の
治安維持にも心を砕く必要がありました。 
不穏な空気も漂う中では幕府も、はたして今ある京都所司代と京都奉行所
だけの力量で京の治安維持を担えるものか? 
こんな不安も抱いていたからです。

~実にまったくほぼほぼ大変に心もとない~
そう踏んだ幕府は、治安維持強化のため新たに「京都守護職」を設けました
が、新役職に就くことには多くの大名が消極的でした。
~うまく運んで当たり前、もしミスがあろうものなら、不覚悟者・無能者~
こんなレッテルを張られてしまうことが必至のメッチャ損な役廻りだからです。
天皇のお膝元の警備を強化することは絶対に必要、されどその任には誰もが
絶対に就きたくない。 なんとも異常な状況です。

窮余の策として、一会桑政権の一翼を担う会津藩・松平容保に白羽の矢が
立てられましたが、しかし、この「白羽の矢」には本人はもちろんのこと、
国元・会津藩の家老なども猛反対・・・なにせ誰もが「とっても損な役回り」
であることを承知しているのですから無理もありません。

それでも結局のところ、松平容保はこの「押し付け」?を跳ね返すことが
できませんでした。 なぜ? 
時の孝明天皇(1831-1867年)ご自身が、この容保に絶大な信頼を寄せて
いたことも理由の一つでしょうが、・・・そればかりではなく、実は幕閣連中
には会津藩に「ノー」と言わせないための飛び切りの殺し文句があった
からです。

それは後に回すとして、さて、その会津藩とは?
この幕末期から遡ること二百年ほど・・・江戸幕府第三代将軍・徳川家光
(1604-1651年/家康の孫)の異母弟として生まれ、その家光とその子供で
ある第四代将軍・家綱(1641-1680年)の政治を補佐したのが保科正之
(1611-1673年/同じく家康の孫)でした。
この正之が陸奥「会津藩」の初代藩主、つまり藩祖です。

そして、この正之は死に臨んだ異母兄・家光(1604-1651年)の枕頭に
呼ばれ、こう申し付けられました。
~えぇか、肥後(保科正之)よ、くれぐれも宗家(将軍家)を頼むゾ~
将軍自らが指名しての遺言?ですから、正之にとってこの言葉はそれこそ
「ハンパない」重みを備えていました。

それもあって、正之は「会津藩」初代藩主として、こんな家訓を定めています。
~会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が(それを)裏切る
  ようなことがあれば、家臣は従ってはならない~

会津藩の家臣たる者は、藩主よりなにより将軍家第一に行動すべき。
この精神を堅持するよう強く強く念を押したわけです。

同時に、幕閣としての正之は、まだまだ戦国の雰囲気が残る社会の風潮を
一掃すべく新たな政治、いわゆる「文治政治」に果敢に取り組みました。
ちなみに、この前将軍(第3代)・家光までの治世は一般的に「武断政治」と
呼ばれています。 

これは武力を後ろ盾にした強圧的な政治姿勢のことで、早い話が反対者に
対しては、「なんぞの文句があるなら腕ずくで来いッ!」と威嚇し、従わせる
やり方です。
それに対し、法制・儀礼などを整備充実することで社会秩序の安定を図る
政治を「文治政治」と呼びます。

保科正之の「文治政治」を象徴する出来事としては、よくこのエピソードが
紹介されます。
江戸時代を通じて最大の大火であった「明暦の大火」(1657年/振袖火事)
の折、江戸城においても天守を焼失する被害を受けました。
(史実かどうかは別として、「振袖火事」の名にはそれなりの逸話があるらしい)

さて、多くの大名連中が再興を模索する中で、正之はこう主張しました。
~それ(再興計画)よりも、その費用を夥しい被災者の救済に充てるべき・・・
  第一この泰平な世にあって、城の天守閣(戦争司令塔?)なぞは、
  時代錯誤であり、もはや無用の長物~

この意見が通ったため、江戸城は現在も「天守閣なし」のままになっています。

松平容保51 保科正之01










 会津藩(九代)・松平容保/会津藩(初代)・保科正之

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少しお話が逸れましたが、その後の会津藩が将軍家第一の姿勢を貫き
続けたのは当然です。 
なにせ藩祖の「遺訓」ですから無視・軽視はできません。
そして幕末期に会津藩・第九代藩主に収まった※のが、美濃国・高須藩から
養子に入ったこの松平容保だったのです。
※いわゆる「黒船来航」(1853年)の前年のこと。

で、「京都守護職」の打診に対し辞退の意を繰り返す容保に対し、幕府周辺は
こんな殺し文句をぶつけたわけです。 
~「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」、尊藩の藩祖は確かこのように
  言い遺されたと耳にしているが・・・これって、聞き間違いでっか?~


まったく、痒いところに手が届く、(あ、違った)痛いところを突いてくるもので、
容保にすれば「弁慶の泣き所」に一撃をくらったような感じだったでしょう。
こう言われてしまうと、会津藩の現役藩主の身でですから、容保とて辞退も
できず、結局は引き受けざるを得ません。
しかも会津藩直系ではなく(美濃国・高須藩からの)養子藩主の身である
だけに、「遺訓変更」には余計に遠慮の気持ちが働いていたのかも
しれません。

結果、不本意ながらも京都守護職として、京都市中の治安維持や
御所・二条城の警備などを務めることになりました。
時の孝明天皇(1846-1867年)は、天皇家と将軍家が二人三脚で歩もうと
する「公武合体」路線、これを是としていました。
ですから、天皇警護のお役目を務める会津藩は当然朝廷側の立場に
あったのですが、ところがその孝明天皇が突然の崩御。

その後を継承した明治天皇(1852-1912年)が、従来路線を否定した
「公武対立」?ともいうべき姿勢を示したことによって、「将軍家第一」を
死守する会津藩は一気に「賊軍」(朝廷に逆らう者)の立場に追い込まれて
しまいました。
念のためですが、この時代の感覚からすれば、「官軍=正義の味方」に
対し、「賊軍=極悪人グループ」の受け止めになります。

~これはほぼほぼとっても拙いッ!~
さりとて、「将軍家第一」はなにせ藩祖の遺訓ですから、今さらここで
「思想転向」?するわけにもいきません。
結局、幕府が大政奉還(1867年)した後も、さらには翌年の会津戦争
(1868年)でも、「将軍家(幕府)」を守るために「新政府軍」を相手に
「徹底抗戦」を続けざるを得ませんでした。

ジリ貧の賊軍・会津藩に対し、明治天皇という後ろ盾を持つ官軍はまさに
イケイケドンドン。
そうした両者間の激戦はおよそ五か月にも渡り、その末に会津軍は
追い詰められ、大将である容保はついに降伏に至りました。 
そこで今度は逆にその容保が、残る家臣に対して降伏を説得する立場に
なりましたが、どっこい、その「藩主の声」には耳を傾けず、なお徹底抗戦を
主張し続けた者もいたそうです。 

~藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない~
皮肉なことですが、藩祖の「遺訓」はこの時点でもしっかり遵守されていた
わけです。
ですから、時代が大きくうねった幕末期にあって、会津藩にこの「遺訓」が
あった方が良かったものかどうか、その評価にはイマイチ悩ましいものを
感じてしまいます。
もし「遺訓」がなかったとしたなら、幕末会津藩ももっと自由な言動も取れたで
あろうし、「朝敵」という汚名も受けずに済んだ可能性も考えられるからです。

それと同じようなことは、変貌の激しい現代についても言えそうで、役目を
終えてこの世を去ろうとする者が、次代を担う者に「言い遺す」なんて姿は
ひょっとしたら不遜極まることなのかもしれません。
だって、現在の「親切心」が、会津藩家訓のように、ヒョッコリ将来・未来の
「迷惑のタネ」に化けてしまうことだってあるわけですからネ。

ですから、愛する家族・子供たちのために「遺言」を・・・なんて大それた?
ことを考えているアナタよ・・・そんな無駄な抵抗は諦めて、おとなしく縛に
就きなさい。
でも、もしその「遺言」が有り余る「遺産」のことでしたら、子供たちの将来の
「迷惑のタネ」を摘み取っておくためにも、こっそりワタシが受取人になって
差し上げますので、そのへんはどうぞ大船に乗ったつもりでご安心ください。 
なあに、当方はハナからボランティアのつもりですので、謝礼のご心配には
及ばないってことヨ。

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