日本史の「信仰」08 時代は殉死を御法度に

病死にせよ自然死にせよ、主君が亡くなった場合に家臣・従者や近親者が
その死を悼んで「追い腹を切る」、いわゆる「殉死」は、戦たけなわの
「戦国時代」にはあまり流行らなかったそうです。
この時代に戦さ以外の理由で死んでしまったのでは、その分だけ戦力を低下
させてしまうわけですから、考えてみれば当然なのかもしれません。

ところが江戸時代に入ると、天寿を全うし自然死した主君に対しても身近な
家臣などが「追い腹を切る」、つまり「殉死」をするようになり、以後しばらくは
これが流行しました。
名誉ある「戦死」の機会が無くなってしまった平和な時代の中で、己の持つ
「武士(もののふ)魂」をアピールしようとすれば、こういう手段しか残されて
いなかったということでしょう。

中でも、仙台藩初代藩主・伊達政宗(1567-1631年)が亡くなった時なぞは、
先立って「追い腹は御法度」としていたにも拘わらず、家臣15人のみならず、
そのまた家臣すなわち陪臣の5人までもが、その「殉死」を果たしたそうです
からハンパではありません。
それどころか、江戸初期の佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂(1580-1657年)に
至っては26人もの殉死者が出たといわれているほどです。
(それでも、殉死者数「日本最高記録」?というわけでもなさそうですが)

ところがこうした行為が「流行」?の域を超えて、「社会通念」にまで定着
し始めると、今度は「殉死の禁」令(1665年)が出されています。 
~殉死の多発は、優秀な人材の喪失に直結する~
こうした現実的で切実な理由があったのでしょう。

しかし、もう少し違った目線で眺めるなら、武士自身の意識の変化も見逃せ
ません。 ~主君は一代(限り)、御家は万代(続く)~ 
つまり、
~我は主君一人のための家臣ではなく、御家そのものに仕えている身である。 
  よってもって、主君が亡くなったからといってサッサと殉死に走ったのでは、
  「御家にお仕えする」という本来の趣旨に反し、親不幸ならぬ「御家不幸」に
  なってしまうわい~


とはいうものの、この頃にはまだまだ殉死を美風と捉える空気が幕閣内部にも
残っていたようで、この「殉死禁止」の命令もきちんとした成文法にまとめた
わけではなく、武家諸法度の改定公布とセットにして「口頭伝達」で行われ
ました。

要するに、法令を作る側にも、時代の空気には逆らえないという思いがあった
わけで、そこで結果的に、「何もしない」と「成文法にする」の両方を足して二で
割る「口頭伝達」という方法をとったと思われます。

この「殉死禁止」の条文を、きちんとした「成文法」として武家諸法度に盛り込む
ことができたのは、これより十数年後の1682年のことでした。
「戦国時代」の生き残りがすっかりいなくなった時代になっても、こんな按配なの
ですから、人間の意識なんてものは一朝一夕でたやすく切り替わるものでも
ないようです。

伊達政宗53 鍋島勝茂01











仙台藩初代藩主・伊達政宗/佐賀藩初代藩主・鍋島勝重

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ところが、それから数百年も経って現代ともなれば、一時期のご先祖様達が
熱を上げた?この「殉死」そのものが大変に分かりにくいものになって
います。 
~いったい、「殉死」することにどんなメリットがあるっていうの?~
実際ここら辺は、現代人にとっては分かりづらい一面があります。

現代人が無駄?とも感じかねないこうした死があったことに対して、
現代人自身が「合理的な理由」を見つけられないとしたなら、ご先祖様達と
現代日本人の感性の違いと言ったらいいのでしょうか。 そこには合理性を
超越した信仰・宗教的な理由があったと考えられます。
日本人の場合に限れば、その有力な候補として、その昔の昔から連綿と
続いてきた「怨霊信仰」が挙げられるのかもしれません。

~生前には家来達を従え活動を展開していた本人も、死んでしまったことに
  よって、そうした環境を失い、さぞかし無念で寂しい思いを抱いていること
  だろう。 だったらそれが「怨霊化」して暴れ出さないうちに、早めに有効な
  手を打つべきだ~


まったくの思い付きに過ぎませんが、残された人間はこう受け止め、これを
慰める「鎮魂」の手段として、生前通りに「家来がいる」状況の復元を模索した
のでは?

つまり、死後の「主君」も生前と同様に「家来」を持てるし、また「殉死」する
「家来」の側も同じく「主君」を持てる。 
これなら、この世に別れを告げる双方の寂しい思いも和らぐことになり、結果と
して「怨霊化」を防ぐことができる・・・こんな感じです。

もっとも、「武士に怨霊なし」という意識もあったそうですから、必ずしも断定
できる考え方ではないのかもしれません。
しかし、そこはそれ、昔の昔から「本音」と「建前」を上手に使い分けてきた
日本人のやることです。
口では建前の「武士に怨霊なし」を唱えながら、それとは別に本音として、
意識の底に「怨霊信仰」を抱いていたとしても不思議ではありません。

しかしともかく、こうした「殉死」に対して、現代日本人が適確に理解できる
かといえば、ちょっと難しいのでは?
なにせ、~人間の命は地球より重い~ これを国是?常識?としているの
ですから無理もありません。
さらには、その数ゆうに一億人を超える現代日本人の中に「殉死」の経験を
持つ人が一人もいない、という現実もあります。
何を隠そう、筆者も「殉死」未経験の未熟者の一人です。

さて、こうした崇高な「殉死」に「水を差す」かのような言葉で恐縮ですが、
こんなことを言った人もいるようです。
~殉死とは、才能なくして有名になる唯一の方法である~
言葉の主は、20世紀に生き「皮肉屋」とも評された人物、あるバーナード・ショー
(1856~1950年/イギリスの劇作家)ですから、一筋縄でない、なかなか
に辛辣な見方を示しています。

ただし、念の為に申し添えれば、これはショー自身が見聞きした、おそらくは
ヨーロッパの「殉死」についての見方であって、「追い腹を切る」という日本の
スタイル「殉死」について語ったものではないのでしょう。

さらに「水を差す」努力を重ねるなら、「殉死」とは全く次元が異なるものの、
現代日本では、死後の相互関係において、こんな意識が芽生えている
とか? 長年連れ添った夫婦間の、妻側の言い分です。

~連れ合いと(夫)と同じ墓に入るなんて、死んでもイヤだわ!~
この感性を驚きを持って受け止めているようでは、現代社会を生き抜いていく
ことはなんぞはできやしませんゼ!
主君に寄り添う形の「殉死」が脚光を浴びた時代とは、真逆の現代になって
いる現実を、死ぬまでにはしっかり自覚しておきなさいヨ、おのおのがたッ!



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