日本史の「誤算」05 佐渡への島流しと島送り

少しマニアックなクイズですが、以下の有名人?四人の共通点はなに?
○第84代・順徳天皇(1197-1242年)
○日蓮宗宗祖・日蓮(1222-1282年)
○後醍醐天皇側近・日野資朝(すけとも/1290-1332年)
○能楽の祖・世阿弥(1363?-1443年)

かなりの歴史知識を持った人でないと解けそうもない少し意地悪なクイズです
から、先に答えを出しておくとこうなります。
~いずれもが「佐渡島」への配流を味わった人物~

そこで、「佐渡島」の配流(遠島)についてちょいと調べてみました。
すると、驚くことに722年の古くから始まったもので、1700年に廃止されるまで、
実に979年間の長きに渡って続いたとされています。
ということは、仮に年間10人ほどの流人だったとしても、計算上の累計では
1万人に近い人数を数えたことになりますが、ところがどっこい、実数としては
意外に小さい数字が挙げられていました。

~奈良時代から室町時代にかけて76人、江戸時代に139人の合計215人~
つまり「遠流の島」として有名?な割には、その累計人数はメッチャ少なく、
年間数人(時には十数人)を数える現代の死刑確定囚よりはるかに少なかった
ことになります。

さて、天下分け目の「関ヶ原の戦い」(1600年)の翌年1601年のこと、実はこの
「遠流の島」に大事件?が起こっています。
金の露頭鉱脈、いわゆる「佐渡金山」の発見がそれです。
多大な戦費を消耗した「関ヶ原」の直後のことですから、勝者・徳川氏が
その開発に力を注ぎ、その果実を独占すべく、この地を幕府直轄地(天領)と
したのは当然です。

ともかく、これはこの時代の「世紀の(金山)発見」?でした。
その影響には大きなものがあって、たとえば現地「佐渡島」においては、
元々は戸数20戸足らずの小さな農漁村だった集落が、この後の20年ほどで
人口10万人にまで急膨張するなどの大変貌も見せたといわれています。
しばらくの間は、いわば日本版「ゴールド・ラッシュ」?の様相を呈したという
ことでしょう。

ところが、「諸行無常」~この世に永遠なるものは一つもない~
この言葉はこの「佐渡金山」にも当てはまっていたようで、坑道も次第に深く
なり、やがては海抜下にまで達しても、なお掘り進むという状況を呈するように
なると、そこに発生する半端でない量の湧水が大きな課題として浮上して
きました。

掘削作業を続行させるためには、溜まり続ける水を外部に排出(水替)作業が
不可欠で、そこでこうした仕事に「水替人足」と呼ばれる労働者を当てました。

この「水替人足」は、当初のうち募集によって行われ、この頃はまだまだ
一般の農民・町人が中心になっていたようです。
確かに「きつい仕事」、現代で言うなら「3K職場(きつい・汚い・危険)」では
あったものの、それなりに高い賃金が支払われましたから、本人はもちろんの
こと、「地元」とて大いに潤ったとされています。

佐渡金山水替51 佐渡金山割戸51









佐渡金山・水替人足/国指定史跡・佐渡金山「道遊の割戸」

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ところが坑道が奥深くになるにつれ、「水替」作業のほうも並行して一層過酷
さを増すようになり、さらに、より大人数の水替人足を必要とするように
なっていきました。
ところが、その頃にはそれに見合うだけの応募者数が得られなくなっていた
のです。 典型的な「3K職場」ですから無理もありません。

この「ブラック職場」?の深刻な「人手不足」に対し、幕府はこう考えました。 
~一般募集でダメなら、よっしゃ強制派遣でいこう!~
折も折、「天明の大飢饉」(1782-1788年)が招いた政情不安も手伝って、
江戸周辺には食い詰めた無宿者が大勢いたのです。 おそらくは幕府の頭の
片隅にはこのことも刷り込まれていたのでしょう。

~こうした無宿者を組織的に「佐渡金山」へ送るようにすれば、江戸の治安
  維持の観点からも、また水替人足を補充する意味からもメリットがある~ 

これは一石二鳥の名案ということになり、計画は1778年から具体的に動き
出しました。
ことがことですから、現地を仕切る佐渡奉行は当然反対します。 
~とんでもないッ! こちらの治安が悪化するではないかッ!~
しかし、それを押し切る形で毎年数十人の無宿者が送られるようになりました。

現地「佐渡島」ではこう呼んで区別したようです
~遠島(1700年に廃止)の受刑者を「島流し」
  一方こうした水替人足(無宿者)を「島送り」

ですから、意外?な感じがしないでもありませんが、きちんとした棲み分けが
あって、「遠流の流人」が「水替人足」に従事することはなかったわけです。

多くは年齢20~40歳程度で人数は200人前後・・・の「水替人足」、つまり
「島送り」の者を鉱山の谷間の矢来※で囲った130坪ほどの水替小屋場に
収容しました。 ※竹や丸太で造った仮囲い

この「島送り」には、犯罪者の更生という側面もあって、作業に応じて小遣銭が
支給され、改悛した者は釈放された・・・とはされているものの、元から
「水替人足」の人手不足を補うのが目的ですから、遠慮なしの重労働になる
ことは避けられません。
詳細はよく分からないものの、~3年以上は生存できない~といわれるほどに
超過酷な作業環境だったようです。 つまり、その過酷さにおいては、現代の
「3K職場」どころではなかったわけです。

さて、幕府直轄地だったその「佐渡金山」は、実は明治に入ると明治政府の
所轄(1868年)とされ、さらには民間・三菱への払下げ(1896年)の運びを経て、
鉱量枯渇により最終的に採掘中止に踏み切ったのは、なんとついこの間?の
1989年(平成元年)のことでした。

ですから、武田信玄(1521-1573年)の時代に最盛期を迎え、次の勝頼
(1546-1582年)の頃には衰退したとされている甲斐金山に比べたら、その
寿命は長かったとはいえそうです。

しかし、甲斐金山の武田家にせよ、佐渡金山の江戸幕府にせよ、最終的には
滅んでしまったのですから、~「金山」を失った権力者は滅ぶ~ 
ひょっとしたら、これもまた歴史の方程式?と言えるのかもしれません。

ちなみに、同じ方程式?を庶民はこう表現しているようです。
~金の切れ目が縁の切れ目~ うーん、ちょっと違う・・・かナ?



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397 日本史の「誤算」02 就職浪人?五畳に引き籠る 無常感か厭世観か
369 日本史の「誤算」01 読者サービス?欠史八代 「神代」なりの御苦労
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