日本史の「誤算」04 武士団スフィンクスに立つ

あまり有名な出来事ではない(筆者の無知?)かもしれませんが、
1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発
(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる
「遣欧使節団」が幕末の日本を離れ、遠くフランスへ渡航した
事実があります。 
これより2年ほど前の「文久遣欧使節」を第1回とするなら、
これは第2回に当たるものでした。

「遣欧」とは言うものの、なにしろまだ飛行機が発明されて
いない時代ですから、一直線で目的地到着とはなりません。
当然途中いくつかの港に立ち寄る船旅になり、この時「使節団」
が乗船したフランス軍艦もその例外ではありませんでした。 
※ライト兄弟による「飛行機」試運転の初成功は1903年。

「使節団」は上海やインドなどを経由する航路でスエズまで到着
すると、ここから先は陸路をとり、こうして地中海まで抜けたら、
あとはフランス・マルセイユまで、また船旅という按配です。

スエズまで行きながら、なぜ「スエズ運河」を利用しなかったの?
それはいささかヘッポコな疑問と言うべきで、「スエズ運河」の
建設開始は1858年、開通したのは1869年です。
要するに「使節団」の折りはまだ建設の真っ最中だったからに
ほかなりません。

陸路でカイロ(ダジャレではありません)まで来たなら、ピラミッドも
スフィンクスも目と鼻の先ですから、「使節団」はここでしばし
「サムライ観光団」に変身です。~各々方ッいざ参るゾッ!~

勇んで現地に達した一行は、その光景に圧倒され、口々に、
~この「ぴらみど」と申す三角石垣は、大きさといい高さといい、
  城もないクセにムダに大げさな拵え方ではないかえ~


~「すふんくす」とやらは大仏様より「デカイお顔」でござるなぁ~
~やあやあ見てみれ、この地の地ベタはよってたかって「砂」
  ばっかしで、「米作り」にはとんと不向きな土壌でござる~

新鮮な驚きを味わった一同は、その「スフィンクス」の前に立ち、
「集合記念写真」も撮っています。

「観光団」いや「使節団」一行は、このあとパリへ移動し、今度は
皇帝ナポレオン3世(1808-1873年)※に謁見しました。 
本来の目的はスフィンクスではなくて、こちらだからです。
※有名なナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)の甥に当たる。

この「遣欧使節団」の使命の一つに、開港場だった横浜を
「再度閉鎖する」交渉が含まれていました。 
一旦「開けた」港を再び「閉じる」ということですから、フランス側
がこれを蹴るのは当然で、案の定交渉決裂と相成りました。


池田長発51 ナポレオン三世01










池田長発/ナポレオン三世

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しかしこの時、「使節団」の面々はヨーロッパという未知の世界を
非常に強く重く実感・体感したようです。
~凄いッ!スフィンクスも凄かったが、このフランスという国家も
  まことにもって凄いッ! 我が国の立ち遅れは歴然じゃッ!~


若きリーダー・池田長発に至っては、
~これほどの西欧文明の強大さを前にして、われ一国が旧態
  依然の鎖国を死守しようしたところで到底無理だ・・・いまや、
  全面開国一直線よりほかに日本の取るべき道はないッ!~

 
そして、幕府側に身を置く立場でありながら、帰国後にも堂々と
「開国」の重要性を訴え続けました。
~各国には「常駐外交使節」を置き、「条約」も結び、外国に
  学ぶために「留学生」を送り、「内外事情」も的確に把握できる
  ようにし、また自由に「外国」へ行けるようにしなくっちゃ~


池田のこうした熱心な意見具申には、幕府もかなりアタマへ来た
ようで、この後にとんでもない展開を見せていきます。
~横浜港再閉鎖の交渉すら失敗した人間が何をいう!
  ええぃ、石高は半分に減らし、池田本人は蟄居じゃッ!~


スフィンクス遣欧使節51 











武士団スフィンクスに立つ/1864年

スフィンクス01











ギザの大スフィンクス/全身像

ここからは話が逸れます。 全長73.5m全高20m全幅6m。 
こんな大きさを誇る「ギザの大スフィンクス」の前で撮った
この「記念集合写真」、何かヘンではないか?  どこが?
※使節団メンバーの一人目付・河田相模守(30歳)の子孫(多分?)の家で、
  撮影後一世紀以上経った1998年に発見された写真


そこで、現代の「スフィンクス写真」も並べてみました。
あれれ、メッチャ高い位置にあるはずのその「デカイお顔」の
やたら近い場所に「サムライ観光団」が立っているゾ!

それもそのはずで、実は当時、この大スフィンクスの首から
下の部分は砂に埋もれていたのです。 
全身を現わすのは、エジプト考古学博物館・館長の呼びかけに
よる寄付金で「砂から掘り出す」作業を進めたお陰で、これが
「サムライ観光団」より約60年後の1926年のこと。 その後
1926年から1988年にかけては足部の修復が行われました。

ですから、「サムライ観光団」は覆った砂を取り除いたのちの
スフィンクスの足を見ることは叶なわなかったわけです。
もっとも、「砂の除去作業」とそれに伴う「本体修復作業」は、
実はこの時が初めてではなく、「建造」以来何度も行われて
いたとされています。 
※「紀元前2500年頃」が一応の定説ながら、この他にも「紀元前7000年頃」/
  「紀元前10500年頃」など諸説があって、要するに分からないということ?


さて、大きなカルチャーショックを受けた帰国後の池田は、
どうやら地元に学問所を作り、国際派?の青少年を育てること
を構想したようです。
しかし不運にも健康を害し、志半ばの1879年(明治12年)満43歳で
没しました。 それでも自身が幕府に直言した「鎖国」・・・これを
改めた新生「明治」日本国の姿を見ることは叶いました。

池田長発・・・これは御世辞抜きの話ですが、その肖像写真を
見る限り、筆者に負けず劣らずのイケメンでした。
これだけは、誰の目にも明らかな「歴史の真実」と言えましょう。




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