日本史の「もしも」09 風前?日本版”アヘン戦争”

七つの海を跨く「イギリス帝国」を構想し、世界各地に
「植民地」を拡大していたのが19世紀のイギリスです。 
アジアにおいては、清国(中国)を標的とした「アヘン(阿片)
戦争」
(1840-1842年)も、まさにそうした行動の一つでした。

そもそもこの戦争は、清国に対する「輸入超過」の分を、イギリス
側が自国の植民地・インドで製造した「アヘン」を「密輸」すること
で相殺しようとしたことが発端でした。

清国とて、自国民が「アヘン中毒」によってボロボロにされて
いくのを、黙って見過ごすことはできません。 
国家には国民を守る責任があるからです。
~わが清国にアヘンを持ち込むのはお止めなさいッ!~
清国がイギリスに対して強い警告を重ねるのは当然です。

しかしそれでも「馬耳東風」のイギリス・・・この対応には清国も
さすがに堪忍袋の緒を切らし、国内に持ち込まれた「アヘン」の
処分に踏み切りました。
※その総量は、なんと「1,400トン」(kgではない!)以上だったと言われる。

ところが、この措置に逆切れしたのが当のイギリスで、
自国の軍事力が優位なことを幸いとして、清国をボッコボコに
痛め付けました。 まさに「暴力団」まがいの振る舞いです。
※イギリス議会のグラッドストンなどは、これを「不義にして非道の戦争」と
  非難したものの、出兵予算案は賛成271・反対262の僅差で承認


結局、清国は完膚なきまでに叩きのめされ、いくつかの都市の
「開港」と香港の割譲(租借地)を認める「講和条約」(1842年)
締結せざるを得ませんでした。
つまり、清国の「海禁(鎖国)」政策はその終焉を迎えたわけです。

そこで、こんな疑問が浮かんできます。 
~清国と同様に「アジア」にあり、「鎖国」にあった日本に対して、
イギリスはなぜ、日本版「アヘン戦争」を仕掛けなかったのか?~


アメリカが、日本にアプローチしたのはもう少し後のことで、
言い変えれば、この頃の日本は「外国勢力」に対してほとんど
ノーガードでした。 もちろんイギリスに対しても同様です。

また、実際こんな摩擦も経験したイギリスが「日本」の存在や
その国力を知らなかったわけでもありません。 
○1808年/フェートン号事件
 →鎖国下の日本・長崎港へ侵入したイギリス戦艦「フェートン号」は
   オランダ商館員を人質にとって、水・食料を手に入れるや無傷で逃亡。

~軍艦一隻にオロオロ慌てふためいた日本の軍事力なんぞは
  見事にヘッポコ過ぎて恐るるに足らぬッ!~


ですから、今度は清国同様の「日本アヘン戦争」?を仕掛ける
なら、イギリス自身の手で「日本開国」を、また「租借地獲得」を
実現させられたかもしれないのに、そうしなかったことが不思議
といえば不思議です。


アヘン戦争51 グラッドストン51








アヘン戦争/グラッドストン

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ひょっとしたら、「フェートン号事件」の顛末もあって、イギリス側
には、こんな油断があったのかもしれません。
~日本へ手を広げるくらいのことはいつでもできる~

あるいは、清国「アヘン戦争」後の「講和条約」(1842年)で、
「香港」割譲を認めさせた実績が、イギリスに多少の満足感を
与えていたことも考えられそうです。
~香港を租借地にしたことで、アジアにおける橋頭堡は一応
  確保できた。 あとは腰を据えての順繰りで大丈夫ッ!~


ところが結果として、その間隙を縫う形で日本に接触したのは
アメリカでした。 イギリスが清国に対して「香港割譲」を認め
させた4年後(1846年)のこと、アメリカは東インド゙艦隊・ビッドル
司令官を送り込み、日本開国へ向けての交渉を開始しています。

この時の「開国交渉」は、幕府の頑迷な態度のせいで大きな
成果を上げるには至らなかったものの、ともかく日本政府に
コンタクトできたことは、アメリカにとっても大きな収穫でした。

これ以後、「日本開国」に関しては、アメリカが一歩抜きんでた
存在になっておきます。 その反面で、イギリスは互いに牽制し
合う列強各国の内の一国という立場に追いやられた形になり、
それまでのような「好き勝手」が出来なくなってしまいました。
この「出遅れ」には、内心忸怩たるものがあったでしょう。
~あっちゃー、こんなはずではなかったゾ!~

その証拠に、「馬関戦争」で「戦勝国」?となったイギリスは、
「敗戦国」?長州藩に対し、「彦島の租借」を要求しています。
※1863年・1864年/馬関戦争(四国艦隊下関砲撃事件) 
  →長州藩と列強四国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)の武力衝突


この時、敗戦国・長州藩を代表する形で戦後交渉(1864年)
当たったのが高杉晋作(1839-1867年)で、超熱弁?を奮って、
「彦島租借」の要求を断固拒否し切った逸話は有名です。
※ただし、この逸話が真実か否かは不明とされている。

仮に晋作の「断固拒否」が本当のお話だったとするなら、その
背景には、自身が上海へ渡航(1862年)し、清国が欧米列強の
植民地になりつつある現実を目の当たりにした経験があった
のかもしれません。
~たとえ期限付きであろうと、領土の租借を認めることは、
  植民地化の第一歩に他ならないッ!~


ですから、結果からすれば、ビッドル艦隊(1846年)、その後の
ペリー艦隊(1853年・1854年)の続けざまの来航は、日本にとっては
ある意味「神風」・・・まことに絶妙なタイミングであり、このことが
あって、イギリスによる「日本アヘン戦争」?は、回避できたとも
言えそうです。

ところが幕府は「アヘン戦争」を横目に見ながら、そのアメリカの
来航を迷惑がって、頑なに拒んでいたのですから、「平和ボケ」
の上に、その「国際感覚」にも疑問符がつこうというものです。

もっとも、江戸幕府のこの時の姿を21世紀・現代日本が笑う
ことはできません。
例えば、隣国・北朝朝鮮の原爆・ミサイル開発に対する対応
一つとっても、すこぶるゆる~い反応しか示せないのですから、
そんなことをしようものなら、それこそ「目クソ鼻クソを笑う」です。

少々品のない表現ですが、どっこい! これって「ことわざ」と
して使われている由緒正しい言葉なんですよ。 念のため!




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