日本史の「怪人」15 販促イベント?北斎の達磨

江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849年)には、
ユニークな逸話が数多く残されています。 たとえば、
改号すること30回? (異見もあり/「北斎」はその内の一つ)
○生涯に93回?の引っ越しを繰り返した。
○どの住まいも掃除をすることなく「ゴミ屋敷」化が常だった。
金銭に無頓着なあまり極端な貧乏生活だった。
○当時の「人名録」には「居所不定」と記録されてしまう。
  →頻繁な引っ越しや長期旅行がその理由か?

当時の人気絵師ということもあって、北斎の画工料金は普通の
倍ほども取れたそうですし、その上に酒もタバコも嗜まないと
なれば、それなりの生活は当たり前に維持できたはずです。
ところが、それが「赤貧洗うが如し」の有様に陥っているのです
から、「金銭に無頓着」を超えて、いささか変人?じみた一面を
備えていたのかもしれません。

さて1817年、二度目とされる「関西旅行」の途中、この北斎は
半年余り、筆者の生息地「名古屋」に腰を落ち着けました。 
以前にも逗留したことがあり、初めての名古屋ということでは
なかったのですが、なんとその折に自身に対するこんな陰口が
耳に届きました。
~人気の北斎とは言うけどよう、チマチマした版画絵くらいが
  関の山なんじゃにゃーのきゃぁ(ないのか)?~


「にゃーのきゃぁ?」なんて言葉遣いですから、陰口の主は地元
の「尾張者」に決まっています。 北斎この時58歳。
~なんちゅう物知らず・恥知らず・歯痛は親知らず・ド田舎者め! 
  この北斎が目にもの見せてド肝を抜いてくれようぞ!~


この通りでは多分なかったでしょうが、まあ概ねこの程度の
経緯があって、「名古屋西掛所」(西本願寺別院)境内で
「チマチマした版画絵」ではなく、なんと120畳大にも及ぶ
「大達磨(ダルマ)像」を描くことになったわけです。

「120畳」とは、坪に直せば「60坪」、メートル法なら「約200平米」
になり、デッカイことを例える言葉「狸のキ○タマ八畳敷き」
(4坪/約13平米)に比べても15倍、まさに圧巻のスケールです。  

さて、ここが肝心なのですが、当日会場に集まった好奇心旺盛な
ド田舎・尾張者達が見守る中、北斎は、
~その巨大カンバスに「超特大」の「達磨像」を、
  しかも「即興」で「一気」に描き上げた~
とされています。

この圧巻の様子を目撃した尾張者は、まさに「ド肝を抜かれ」た
のでしょう。 今度は打って変わって「北斎フィーバー」です。
~あの「達磨(を描いた)先生」(だるせん)は、まっこと凄い御仁
  だがや! ほんと、ビックリこいてまったがやッ!~


しかし、いかに腕の立つ絵師とはいうものの、本当にこれを
大観衆?を前にした「公開イベント」で、しかも「ぶっつけ本番」で
行ったものでしょうか? 

万一失敗ともなれば、北斎とて「にゃーのきゃぁ?」レベルの
「陰口」では済まず、これまで築き上げた評判を一気に落として
しまいかねません。 これではモロに「逆宣伝」です。


北斎達磨52 狸信楽51








120畳大の「大達磨」/8畳大の「狸のキ○タマ」

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ところが、そんな状況下にありながら断固決行したのですから、
つまりは、~必ず成功させられる~との読みがあったに違い
ありません。 実は、ド田舎に住む純朴?な尾張者達はとんと
知らなかったことですが、北斎にとって、これが「初体験」という
わけではなかったのです。

この「イベント」に先立つこと十数年前、北斎40歳の時(1802年)
のこと・・・江戸・音羽護国寺で、やはり「120畳大」の「大達磨像」
を描いた経験があったのです。
要するに北斎は、「大達磨画のノウハウ」をとっくの十数年前に
自家薬籠中の物としていたことになります。

しかし、技術的な面は差し置いても、こうしたイベント?には半端
でない費用が掛かることは昔も今も変わるものではありません。
では、超貧乏人?北斎がその費用をどうやって工面したのか?
実は、ちゃんとした「仕掛け人」(スポンサー)がいました。

それが、北斎の「江戸での経験」を承知していた名古屋の版元
「永楽堂」です。 知っていたからこそ、~失敗はあり得ない~ 
こう見切って大々的な「イベント」にも踏み切れたのでしょう。

「永楽堂」がそこまで北斎に肩入れしたのには、もっともな事情が
ありました。 実はこの数年前、「北斎漫画」※(1814年)の初編を
発行し、これが好評を得ていたのです。
つまり、名古屋西掛所のイベントは、版元「永楽堂」からすれば、
「北斎漫画」をベストセラーに押し上げるための「販売促進キャン
ペーン」の意味合いもあったわけです。

※1812年秋頃、半年ほど名古屋に逗留し300余りの下絵を描いた。

北斎漫画51 北斎自画像01







北斎漫画/北斎「自画像」

実際、人物・風俗・動植物、果ては妖怪変化まで約4000図が
描かれたこの「北斎漫画」は人気を呼び、その後1878年(明治11年)
までに全十五編が発行されるほどの好評を博しました。 
それには名古屋で催されたこの「大達磨画イベント」?も
少なからず貢献したに違いありません。

この「北斎漫画」、実は偶然のことから1830年代のヨーロッパにも
渡っています。
偶然という表現になるのは、本来の「絵画作品」としてではなく、
その他の「浮世絵」と同様に、磁器・陶器輸出の際の梱包用
「緩衝(クッション)材」として海外進出?したからです。

結果として、他の浮世絵と同様にフランス印象派の画家たち
(モネ/ゴッホ/ゴーギャンなど)にも多大な影響を与えたことは、
割合よく知られているところですが、おそらく北斎ご本人には
それを知る機会はなかったでしょう。 仮に知ったとしても、
なにせ変人?ですから、そんなことは無視したかもしれません。

そして、冒頭にも並べた北斎の数多の変人ぶりを合理的?に
解釈する試みとして、「北斎隠密」説も登場しています。
つまり、冒頭の挙げた、改号(名を変える)/引っ越し/居所不定
など、普通人の行動としては、いささか不可解な点も、北斎が
「幕府の隠密」※1だったとすれば、意外に合理的な説明がつくと
する見解です。

ただ、こうした説もまだ「通説」にはなっていないようですから、
つまりは「東洲斎写楽」※2と同様に、この北斎も「謎の絵師」
一人ということなのかもしれません。

※1) 高橋克彦著「北斎殺人事件」(1987年)日本推理作家協会賞
※2) 高橋克彦著「写楽殺人事件」(1983年)江戸川乱歩賞



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