日本史の「災難」03 ゆるネーム?”蛤御門の変”

幕末期、それまで共に御所の護衛に当たっていた長州藩は、
同僚?の会津藩・薩摩藩から、突如として締め出しを食らい、
京から追放される立場になりました。
いわゆる「八月十八日の政変」(文久3年/1863年)です。

仲間の裏切り?にあった長州藩は当然巻き返しを図り、これが
翌年の「禁門の変」(1864年)と呼ばれる軍事行動でした。
ちなみに「禁門」とは、「禁裏(天皇のお住まい)の門」を指す言葉
で、それが転じて「皇居」そのものを意味することもあります。

ところが、この「禁門の変」を起こしたことで、長州藩ははっきり
「天皇の敵」、すなわち「朝敵」の立場になってしまい、この後には
「勅命」(天皇の命令)により、「第一次長州征伐」(1864年)が実行
されています。
「第一次」という表現は、当然「第二次」もあってのことで、これが
1866年の出来事です。

要するに朝廷側は、この頃の長州藩を「ちょっと危ない奴」と見て
いたことになります。 でも、直前まで「御所警護」の一翼を担って
いたのに、なんでそうなるの? 

「幕府」を必要な存在として認め、「朝幕」仲良くの「穏健路線」を
望んでいたのは他ならぬ孝明天皇(1831-1867年)ご自身でした。 
にもかかわらず、長州藩はそのご意向を無視?した形で、
討幕をも視野に入れた「過激?路線」を突っ走っていたのです
から、「ちょっと危ない奴」?との印象は当然かもしれません。

さてお話はやや横道へ逸れますが、この「禁門の変」には、
いくつか別の呼び方もあります。
例えば、その時の元号から「元治の変」(げんじのへん)、また
そこに干支を加えた「元治甲子の変」(げんじかっしのへん)
さらには、そこに「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)という表現
も加わります。

では、その「蛤御門」ってなんなのさ? ご安心ください! 
ややこしいのですが、「蛤御門」は正式な名称ではないものの、
まさしく「禁門」(新在家御門)を指しており、いわばその俗称が
「蛤御門」なのです。
つまり、正式名称は「新在家御門」、その俗称、今風にいうなら、
いわゆる”ゆるネーム”?として「蛤御門」と呼ばれたわけです。 

では、どうして「御門」が「蛤」(はまぐり)なのか?
実はこのようなことから「蛤御門」との呼び方が定着したとされて
います。

「禁門」は「御所」(天皇のお住まい)の入口ですから、警戒が厳重で
普段はめったなことで開くものではありません。
ところが、その御所が火災になった際に、この時だけは開いた
ため、~固く閉じていたものが火に炙られて開いた~
この状況を、貝の「蛤(ハマグリ)」に例えて「蛤御門」
※「宝永の大火」(1708年)、「天明の大火」(1788年)など、諸説あり。

しかし、「御所火災」という大事件の折でさえ、こんな言葉遊び?
をしていたとするなら、先人たちは妙に「異変慣れ」?していたと
言えるのかもしれません。
今風に言えば、「大災害」に遭遇しながら、その「ゆるキャラ」?
を考案しているようなものですからね。


焼き蛤桑名51 蛤御門の変52





焼き蛤/蛤御門の変

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ  ↓コメント欄はいちばん下↓
↑応援クリックは↑

この「蛤御門の変」は、戦闘自体も相当の激戦でしたが、
むしろ戦闘に伴って発生した「大火災」による民間人被害や物的
被害の方が甚大でした。
全戸数5万件弱とされている中で、3万件近い焼失戸数を数え、
しかも両軍合計の人数に匹敵する民間人被害を発生させたと
されています。

ですから、言葉遊び?の好きな先人たちはこの「大火災」にも
さっそくのこと、ゆるネーム?を付けました。
正式には元号から採った「元治の大火」というそうですが、
これを「ドンドン焼け」とか「鉄砲焼け」とか呼んだのです。

~手の施しようもなく見る間に「どんどん焼け」広がった~様子
や、またこの時市街戦で~「鉄砲」の音が鳴り響いた~ことから
こう呼んだようですが、これもなかなかに巧みなネーミングです。

のんきに感心している場合ではありませんが、ところがこうした
ことで、その戦端を切った「長州藩」に怨嗟の声が集中したのか
と言えば、これが不思議なことに逆に幕府側の「会津藩」の方が
悪者になったというから話は面白い。

庶民の見方はこうでした。
~大火は長州残党を狩り出すために、(幕府側の)会津藩が
  不必要に行った放火が原因であり、だから、そんなことをした
  会津藩とその手先になった新選組の方が断然悪いッ!~

これを「世論」と解釈するなら、この頃の幕府は既に国民の支持
を失っていたのかもしれません。

しかし、これを見た朝廷側は、こんな印象をさらに強めました。
~長州は、メッチャ野蛮で凶悪な過激派集団でおじゃるッ!~
だからこそ、二度までも「長州征伐」を実施したのでしょう。

ところがこの数年後には、この長州藩が朝廷側つまり「官軍」に
なり、幕府が朝敵つまり「賊軍」となって、その立場が百八十度
入れ替わっているのですから、政治の世界はまことに「一寸先
は闇」です。

さてお話を「蛤御門」に戻すと、ではその「蛤」そのものの語源は
どこにあるのでしょうか?
どうやらこれが定説になっているようです。
~「浜」辺に生息し、形が「栗」の実に似ていることから「浜栗」~

で、今度はその「蛤」を探っていくと、名産地は全国各地にあり
ますが、筆者の生息地近くの三重県「桑名」も有名です。
なにせ、十返舎一九の人気本「東海道中膝栗毛」(1802年~)
中の弥次郎兵衛・喜多八さんも、桑名でこの「焼き蛤」を肴に
酒を飲んでいるそうですから筋金入りです。

そこで、先日久方ぶりに桑名の友達にあった際、折角ですから、
弥次さん喜多さんのお話も持ち出して、
~やっぱり「焼き蛤」の日本一は桑名だよなぁ~
まあ不自然にならない範囲で、目一杯ヨイショしました。
もちろん、名物「焼き蛤」を奢らせる魂胆があってのことです。

ところが、テキもさる者。 いささかクールに返ってきた言葉は、
~おっと、その手は桑名(食わない)の焼き蛤ッ!~
ちなみに、この有名な「地口」(ダジャレ?)も、江戸時代には
すでに使われていたそうです。
それはそれとして、他人の財布のヒモを緩ませるのは、結構
難しいものがありますねぇ。




 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ  ↓コメント欄はいちばん下↓
↑応援クリックは↑ 
         


---これまでの 「災難」 シリーズ----------------
376 日本史の「災難」02 ”面食い”は禍根を残す 謙虚不足は罰が当たる
371 日本史の「災難」01 築城名人<せいしょこ>さん 震災と劣化二つの名城
-------------------------------
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
ヤジ馬の日本史~超駄級・300記事一覧~ №202-299編 堂々肩すか史!
-------------------------------







ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック