日本史の「アレンジ」15 偶然?1582年の改暦問題

明治新政府が従来の「和暦」から「西暦」への改暦詔書を出し
たのは、和暦の明治5年11月9日、西暦では1872年12月9日の
ことでした。
~太陰暦を廃止して太陽暦にする。 明治5年(1872)12月3日
  を以って、明治6年(1873)1月1日とする~


ただ「太陽暦」には二つがあり、この場合は古い「ユリウス暦」
ではなく、それより新しい「グレゴリオ暦」を指しています。 
両者は、時の権力者の名を冠した点では共通していますが、
実は「閏年」の扱いにチョッとした相違があります。

ユリウス暦~4年ごとに(1年=366日の)「閏年」を置く~
ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)によって制定され、
  紀元前45年1月1日から実施されていた暦法。

グレゴリオ暦~4年に1度の「閏年」を400年間に3回省いたもの~
(※西暦の数値が400の倍数でない100の倍数の年は「閏年」とはしない)
→1582年にローマ教皇・グレゴリウス13世がユリウス暦を
  改良した暦法を制定。

実際、分かったようでよくは分からん説明ですが、暦の精度に
いささかの違いがあって、
~「ユリウス暦」だと128年ばかりで1日の誤差が出るが、
  「グレゴリオ暦」なら凄いことにそれが3221年になるゾ~


この点の優位性を認めたものか、16~20世紀にかけて世界
各国が「グレゴリオ暦」に切り換えていますから、「改暦」は
この時代の「世界的なトレンド」だったのかもしれません。
こうした中で、極東・日本も「明治の改暦」を行ったわけです。

日本が使い続けていたいわゆる「和暦」(太陰太陽暦)も、精度の
点では似たり寄ったりで、方法は異なるものの、実は昔から
よく検討が加えられてきました。

「両暦」の最大の違いは、いわゆる日数の「端数」?に当たる
部分の扱いです。
太陽を基準にした「西暦」は1年に1日が追加される「閏年」を
テーマにしていますが、これに対し、月を基準の「和暦」では
1年を13カ月にする年の「閏月」をどこに置くかが最大の問題に
なります。

気分次第で勝手に配置してよいというものではなく、実際には
「二十四節気」に基づいた科学的?かつ複雑な計算を必要と
するもののようですから、その分扱いも厄介なわけです。

そんな「閏月」問題の中でもよく知られているのが、天正10年に
織田信長(1534-1582年)からなされた提案?かもしれません。
奇しくも、「グレゴリオ暦」がスタートした1582年のことでした。


グレゴリオ13世01 織田信長52










グレゴリウス13世/織田信長

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精度の面でイマイチだったのか、応仁の乱(1467-1477年)以後、
朝廷が策定する暦の権威は次第に低下し、それに代わって
各地で民間の暦も作られるようになりました。

そうした流れの中にあった天正9年のこと、朝廷は
~次の「閏月」を翌々年(天正11年)の「閏1月」とする翌年の暦~
いわゆる「京暦」を策定しました。
ところが、東国で広く使われていた「三島暦」は、これを
翌年(天正10年)の「閏12月」に置いていた~のです。

「正月」が一ケ月もずれている複数の暦が登場したのでは、
日常生活にもなにかと不都合が生じます。
そこで、「三島暦」を推す信長は朝廷との交渉に臨み、
~二つもあっては不便だでよぅ、ここは「三島暦」でいこみゃぁ~

ところが、「暦」というテーマは元々が複雑な自然現象を、
人間側にとって便利な形に体系化しようとする作業ですから、
そうそう簡単に結論が出るものではありません。 
実際、話は平行線のままでした。
そこで「三島暦」に固執した信長はこの話を蒸し返しました。
これについては公家の一人が日記にこう書き残しています。
~ナンダあの信長って野郎は・・・無理ばっかしコキやがって~

これが天正10年(1582)6月1日のことです。
つまり「夜が明けたら次の日」という当時の感覚からするなら、
まさに「この日の夜中」に信長は「本能寺の変」に倒れたことに
なるわけです。

で、結果として、朝廷主張の「京暦」と信長推薦の「三島暦」の
どちらに軍配が上がったのか?
どうも多くは「三島暦」の1月(「京暦」では閏1月)で正月祝いを
行ったようですから、こうしたこともまた朝廷の権威をさらに
失墜させました。

ですから、西暦では「1582年」、和暦では「天正10年」に当たる
年は、西欧でも極東・日本でも大きな「改暦問題」に直面して
いたことになります。
今になっては確かめようもありませんが、なにせ好奇心旺盛の
上に情報通でもあった信長のことですから、ひょっとしたら、
この頃すでに「異国の改暦」?に関する噂話くらいは耳にして
いたのかもしれません。

西欧の暦には、ローマ帝国の巨頭・カエサル(前100-前44年)
ローマ教皇・グレゴリオリウス13世(1502-1585年)など、時の
権力者の名が冠されていますし、また日本の「京暦」も神代の
昔からの権威者・朝廷が仕切っていました。

こうした事実から信長は、「暦法」の制定は権力者の特権?で
あることにも気が付いていたと思われます。
ですから、もしもこの時の「改暦」作業が信長の思い通りに
運んでいたとしたら、「信長暦」の誕生もあり得たわけで、
だからこそ、公家衆から、~無理ばっかしコキやがって~
嫌がられるほどに食い下がったのかもしれません。

ちなみに、「暦」がらみでこんなクイズを。
~日本人の満年齢はいつ加算されるのか?~
多分こう信じている人の方が多数派ではないでしょうか。
~そんなもん、誕生日当日に決まっている!~

ところがギッチョン、これはまったくの誤解で、法律上は誕生日
の「前日」時点で満年齢が加算されることになっています。
つまり、「4年に一度」の閏年「2月29日」が誕生日の人も、
満年齢は、その前日の「2月28日」に加算されるわけです。

これがもし4年に一度の「誕生日当日」に加算という扱いなら、
いかに選挙権年齢が引き下げられたとはいえ、「満18歳」に
達するにはまことに長い長い道のりを必要としてしまいます。
確かにこれではチョー「不公平」ですものね。




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この記事へのコメント

ゆきずりさん
2017年04月11日 13:12
>この頃すでに「異国の改暦」?に関する噂話くらいは耳にして
>いたのかもしれません。

立花京子さんは著書「信長と十字架」の中で、信長の改暦問題とは京暦からグレゴリオ暦への変更だった、と主張なさっていましたね(呆)。
2017年04月12日 09:42
>ゆきずりさんへ
コメントをありがとうございます。
この立花京子先生の「グレゴリオ暦」の主張の
方は承知していませんが、ネットで調べると、
この『信長と十字架』で展開した、
「本能寺の変」の南欧勢力黒幕説をツッコまれて
その後は沈黙(撤回?)した恰好になっている
とか。 「新説」を認知されるって難しいこと
のようですね。
今後とも弊ブログのご贔屓をよろしくお願い
いたします。

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