日本史の「怪人」13 通説見直し?冬峰踏破の怪

「さらさら越え」・・・初めてこの言葉に触れたときには、
なにかしら「ハイキング」に似たイメージを持ったものです。
「さらさら」という優しい響きと「越え」という弾んだ言葉が
こんな歌のイメージに結びついていたのかもしれません。 

♪丘を越えて/行こうよ/真澄の空は/朗らかに・・・
※「丘を越えて」作詞:島田芳文/作曲:古賀政男/歌:藤山一郎

ところが後に、その実態は史実とは思えないほどにトンデモな
お話であったことを知りました。 
さて、その「さらさら越え」の経緯は概略こんな按配です。

信長暗殺事件「本能寺の変」(1582年)以後の織田家を牛耳った
のは信長・家臣の羽柴秀吉でした。 
この状況に身の危険を察した織田家後継候補の一人である
織田信雄(信長次男)は、もう一人の実力者・徳川家康の懐に
逃げ込む策を取りました。 
身の安全を図るには賢明な方法です。

家康にしても、「切り札」を手中にしたことで、これまでよりも強気
に出ることもできるわけですから、これは決して迷惑な話でも
ありません。 しかし、秀吉と家康、~両雄並び立たず~ 
当然両者の間には一触即発の空気が漂い、おそらく多くの武将
たちも固唾を飲んでその行方を眺めていたものと思われます。

ところがそうこうする内に、当の信雄が秀吉の口車にまんまと
乗せられて庇護者・家康に相談することもなく、独断で秀吉との
「和議」を結んでしまいました。 こうなってしまっては後見人?
家康としても「拳」を降ろさざるを得ません。

この経緯に大きな不満を抱いたのが信雄支持つまり反秀吉派
である佐々成政(さっさ・なりまさ/1536?諸説あり-1588年)でした。 
~「織田家再興」のためには、何がなんでももう一度、家康殿に
  コブシを挙げて頂かなくっちゃ!~
 当然こう考えます。

そこで、越中・富山にいた成政は自ら出向き、家康説得に
当たることにしたわけです。 しかし越中・富山から遠江・浜松の
家康を訪ねるには大きな障害がありました。

越中の東・越後は上杉景勝、西・加賀は前田利家、両方面共に
「秀吉」方の大名が支配しており、南・飛騨は家康方の支配と
いうものの、そのさらに南・美濃はやはり「秀吉」の領地です。

要するに、どのルートを通るにしても、目的地・浜松にすんなり
辿りつくことができません。
蛇足ですが、へ向かえば間違いなく「日本海」へドボンです
から、このルートはハナから論外です。 


さらさら越え51









さらさら越えを描いた錦絵(歌川芳形画)

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そこで成政は、家康の支配地・信州(大町)に出て浜松に向かう、
つまり、厳冬の雪深い北アルプス・立山連峰を踏破する方法を
選んだとされ、それがいわゆる「さらさら越え」と呼ばれて、ほぼ
通説になっているようです。

「人間50年」といわれた時代のことであり、しかもこの時の成政
は若く見積もっても既に50歳近く、つまり今でいう「後期高齢者」
の年齢域にあったのですから、現代のイメージなら、登山家・
三浦雄一郎(1932-)※が80歳(2013年)にしてエベレスト登頂に
挑んだようなものか?

しかし、仮に数十人の供廻りがいたにせよ、なにせ20mほどの
積雪の上に雪崩も多く、さらには零下20~30度、しかも現代の
ような登山装備もないという最悪の条件下ですから、確かに
この「立山踏破」を50歳に近い後期高齢のジイ様・成政
やり通せたとは考えにくい面もあります。

ただ家康・重臣の日記にこんな記事が残されているのです。
(天正12年)12月25日、越中の佐々内蔵助浜松へ越し侯~
ですから、後期高齢者?成政が浜松へ辿り着いていたのは
間違いないことと判断され、そこで成政命懸けの「さらさら越え」
は、やっぱり事実だったとする解釈が一般的になっていったの
でしょう。

ところが2013年のこと、金沢市玉川図書館近世史料館で、
こんな書状の写しが見つかりました。 (北國新聞)
~この度そちらへ参ったところ、山入りまで送ってくださり、
  お礼の申し上げようもない~


学者先生の見立てによれば、家康説得に失敗した後、富山に
戻った成政が上杉景勝の家臣・村上義長に宛てた書状の写し
とのことです。 (1585(天正13)年1月21日のこと)

この書状を見る限り、成政がとったルートは従来通説の
「さらさら越え」ではなく、越中の東隣の越後、つまり上杉景勝の
領国を経由するものだったとも受け取れます。 
ひょっとしたら景勝側にも何らかの事情があって、敵方?成政
に「貸しを作っておく」つもりがあったのかもしれません。

すると、~通説「さらさら越え」は単に伝説なのでは?~とか、
~遭難リスクの小さい別の安全なルートを通ったのでは?~
など、従来一部で囁かれていた、こうした見方にも俄然注目が
集まることになります。
もちろん、この辺は今後の研究を待たなくてはならないので
しょうが、これはこれで楽しみなことです。

それはともかく、この極限環境下での命懸けの「北アルプス・
立山連峰越え」
がなぜ、優しい響きの「さらさら越え」と言われて
いるのでしょうか?
これも諸説があるようですが、それらを整理してみると、
この説明が一番分かりやすいのかも?

通説「立山踏破」の場合だと、このルートの象徴的な場所である
「佐良(ザラ)峠」「佐々成政」が踏破したことになり、
~「佐々の佐良(ザラ)峠越え」・・・「佐々佐良越え」、
  これがなまって「さらさら越え」になった~


ですから、もしこの厳冬の「佐良(ザラ)峠」を踏破した人物が
江兼続(1560-1619年)だったとしたなら「なおさら越え」
川氏真(1538-1615年)だったとしたなら「いまさら越え」
呼ばれていたのかもしれませんでぇ。





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