日本史の「事始め」06 未知との遭遇”英和辞書”

「黒船来航」(1853年)より45年も前のこと、鎖国?日本の長崎で
いわゆる「フェートン号事件」(1808年)が勃発しています。
イギリス軍艦「フェートン号」がニセの国旗(オランダ国旗)を掲げ、
長崎港へ強行入港するや、現地のオランダ商館員を人質に
とった事件で、さらにはその身代金代わり?として薪・水・食料
などを要求し、それらをまんまと入手した上に、悠々とトンズラを
決め込んだのですから、軍事政権?幕府としては、まさに面目
丸つぶれ、屈辱的な出来事でした。

さすがの幕府も、この”傍若無人”ぶりには相当な危機感を
抱いたのでしょう。 
この時ばかりは、普段の腰の重さとは打って変わって迅速な
対応を見せています。

~あの“狼藉野郎ども”(イギリス)のことをもっと知らなくっちゃ!~ 
「イギリス研究」の必要性を痛感した幕府は、その初めの一歩と
して、オランダ語通詞らに「英語の習得」を命じました。

とはいうものの、鎖国中?ということもあって、オランダ以外の
西洋国を知らないわけですから、そもそも英語そのものにも
十分な理解が及ぶものではありません。
ましてや会話・文章のレベルに至っては、現在のワタシ並みに
まったくお手上げの有様で、これは命じた幕府側も、命じられた
通詞側も同様でした。

~なんぞ良い知恵はないものか?~
日本側は、ちょうどその頃、出島オランダ商館に赴任した商館長
補佐官がいくらか英語に通じていたことに目をつけ、今度も
幕命をもってこの補佐官を英語の教授に当たらせることで、
オランダ通詞仲間の英語修業を開始すべく体制を整えました。

そうなると、よりスムーズな学習のためには「教科書」や「辞書」
の類が不可欠になるのは当然です。
未知なる言語「英語」への取り組みはこうして始まりました。

そしてその成果が目に見える形になったのが、おそらくこれが
日本人の手による最初?の英単語集・英会話集であろう
「諳厄利亜興学小筌」でした。
この「興学小筌」の完成を喜んだ幕府は、次に「英和辞書」編纂
を命じています。

難儀の末に、やっとの思いで完成させたのが日本初の英和辞書
「諳厄利亜国語林大成」全15冊で、これが1814年のことです。
しかし、この漢字の羅列をどう読んだらいいものか? 
おそらく現代日本人の多くは読めないことでしょう。
ワタシも読めません・・・なにしろモロに並みの日本人ですから。


未知との遭遇51 イングランド01








   映画 「未知との遭遇」 1977年      「諳厄利亜語林大成」

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「あんげりあ-ごりん-たいせい」と読むのだそうです。 後半の
「語林大成/ごりんたいせいは、確かに辞書を連想させる字面に
なっているとしても、では前半の「諳厄利亜/あんげりあとは
一体なんのこっちゃ?

「諳厄利亜/あんげりあとは、実は「イングランド」を指すラテン語
「ANGLIA」に由来するそうで、また「English/エンギリス」にも、
同じ「諳厄利亜」の字を当てていたようですから、要するに、
今で言う「英語/英国」をイメージしたものだったのでしょう。

そして、辞書「語林大成」は発音を「カタカナ」で表記しました。 
余談ですが、いまだに「発音記号」を理解・習得できないワタシに
とっては大変にありがたい気配り?でした。

「語林大成」完成までのこうした流れを逆算してみると、実は
キッカケになった「フェートン号事件」から、わずか六年ほどで
成し遂げたことになります。

これより以前に、杉田玄白(1733-1817年)らが、オランダ語の
医学書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り組み、「解体新書」
(1774年)を著していますが、この作業には約三年の歳月を費やし
ました。

幾分は馴染みのある「オランダ語」ですら、これだけの時間を
要したことを思えば、まったく「未知の言語・英語」の研究を、
まったくの「白紙状態」から始め、短期間?で約6,000語を収載
する「辞書」を完成させた事跡は、これはやっぱり「凄いッ!」と
評価するべきものでしょう。 
日本人って、やる時にはやるものですねえ!

この時「諳厄利亜プロジェクト」?のチームリーダーを務めた
オランダ語通詞「本木庄左衛門正栄」(1767-1822年)自身が、
その経緯をこう述懐しています。

~長年習い親しんでいるオランダ語とは違って、遠く数万里も
  隔たった見ず知らずの異国・イギリスの国語を、はじめて修行
  するのであるから、言語・発音・風俗・事情を理解することにも
  大変な困難が伴ったもので、思いのほかシンドかったゼ~

つまり、この庄左衛門にとって「英語」との出合いは、それこそ
「未知との遭遇」だったわけです。

さて、現代日本人は杉田玄白の名は割合知っていても、この
本木庄左衛門の名を知る人は、それほどでもないようです。
ひょっとしたら、その知名度の差は書名の難易が作り出したもの
だったかもしれません。 

素朴明快な書名「解体新書」に比べたら「諳厄利亜/あんげりあ
という字面・発音は現代日本人にとっては、確かに複雑怪奇な
印象を漂わせていますものねぇ。




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