日本史の「もしも」02 秀吉の四人?の息子たち

天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)の没後、豊臣家は秀吉唯一の
男子・秀頼を後継者に立て、徳川家の圧力に抗し続けたが、
「大阪の陣」(1615年)において結局滅亡に至った・・・史実は
こうなっています。
ではもしも、秀吉が複数の男子に恵まれていたとしたら、
豊臣家の天下はどうなっていたのでしょうか?

ということで、この先は「もしも」のお話になりますが、公平を
期して、ここでは正室・北政所(1547-1624年)側室・淀殿
(1569-1615年)が、秀吉の血を引く男子をそれぞれ「二人づつ」
産んでいたと仮定してみます。

北政所と淀殿の年齢差を加味して、北政所の最初の男子
(仮名/秀壱が1567年生、二人目(仮名/秀弐が1571年生とし、
一方淀殿の場合は、長男(早世した鶴松1589年生、仮名/秀鶴
次の秀頼(1593年生)の二人です。

つまり、この四人の息子達は、秀吉の死の(1598年)の時点で、
(何事もなければ)秀壱32歳、秀弐28歳/秀鶴10歳、秀頼6歳と
いう強力な後継者群を構成していたことになります。

この布陣が一致団結していたなら、徳川家康(1543-1616年)
ごときに、そうやすやすとつけ込まれることもなかったようにも
思えますが・・・問題は秀吉本人の遺言(意思)です。
「四択」?の候補者のうち、誰を後継者に指名したのか?

常識的にみるなら、正室・北政所の子、つまり嫡男「秀壱」
なるところでしょう。
血筋的にも年齢的にも不足がないからです。
しかし、秀吉は意外にも「別の選択」をしました。


画像











   大坂夏の陣図/三河武士のやかた 家康館

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では、誰を選んだのか?
それには、まず秀吉の心情を推し量る必要があります。

秀吉が淀殿を側室に迎えたのは、若い頃から憧れ続けた女性
・お市(主君・織田信長の妹)の娘であり、そしてまたその美貌を
色濃く受け継いでいたからです。

つまり、糟糠の妻・北政所よりも、「若くて美しい」側室・淀殿に
メロメロだったということですから、死の床にあった秀吉が
客観的で冷静な判断を下せたものかどうか?

重臣達を集め、豊臣家(淀殿・秀頼)に対する忠誠を誓わせるなどの
「茶番劇」を演じたこの時期の秀吉の姿は、実際「判断力の衰え」
を感じさせるものがあります。

そうした中で、秀吉が後継者として選んだのは他の三人に比べ
血筋的にも年齢的にも最も不適?な末子・「秀頼」
なんで、こうなるの? 理由は至極単純。
・・・その時点の最愛の女性・淀殿の子であり、かつ、その時点で
「一番幼くカワイイ存在」だった
からです。

秀吉の言い分は~若過ぎるだとォ? そんなら、おみゃァ(君)
たち三人が補佐したりゃあ、なんも問題はあれせんがや!~

こういうワンマンの独断専行って身内で揉めるんですよね。
心中面白くない北政所系の「秀壱」「秀弐」は、案の定、
非協力的な態度をとり、また淀殿系の「秀鶴」だって同様です。

つまり、豊臣家中枢の団結は「絵に描いた餅」に終わり、秀吉の
死から二年後の「関ヶ原の戦い」(1600年)では、「秀壱」「秀弐」も、
そして「秀鶴」も、籍?は「豊臣方」に置くものの、史実にある
小早川秀秋(秀吉の甥っ子で一時養子)の裏切り?と同様、
土壇場で「うっちゃり」をかまします。

そして、この秀秋が「関ヶ原」の二年後に急死したのと相前後し、
「秀壱」「秀弐」「秀鶴」の三人も不可解な死を迎え、つまり、
ここから先は史実と同じ道を辿って、結局「豊臣家滅亡」へと
突き進むわけです。

ですから、淀殿にメロメロになった時点で、秀吉自らが
「豊臣家滅亡」の原因を作っていたとも言えるのでしょう。
で、今回の「もしも」は、こんな歴史教訓を残すことになります。
~色気と天下だとォ? ちぃとばか えらにゃァきゃァ!~

訳:スケベ心と天下経営の両狙いとは少々虫が良すぎやしませんか!



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---これまでの 「もしも」 シリーズ-----------------
202 日本史の「もしも」01 それは生麦村で起きた! もしも他の村だったら?
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ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
ヤジ馬の日本史~超駄級・200記事一覧~ 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
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