日本史の「迷宮入り」04 半世紀将軍の子づくり

総理大臣が一年任期?の現代日本ではちょっと驚きの史実に
なりますが、人生五十年と言われた時代になんと「任期五十年」を
まっとうした将軍がいます。(在位:1787年-1837年)
江戸幕府第11代・徳川家斉(いえなり)がその人です。

画像 就任は15歳、引退が65歳、実は
 その後も「大御所」として幕府の
 実権を握り続けていたとされて
 いるのですが、1841年(69歳)に
 亡くなっているので、こちらは
 それほど長くはありません。
 出展:wikipedia 徳川家斉

 就任早々、この家斉が先代・
 家治(いえはる)時代に活躍
した田沼意次を罷免した上で、新たに老中・松平定信を任命した
ことになっていますが、普通に考えれば15歳の少年が自分の
意志でそこまでできたとは考えにくく、これは周囲の人たちの思惑
がそうさせたものと思われます。

この将軍の、この「驚異的な在位期間」も確かに特筆モノですが、
もっと有名なのは「メッチャ子だくさん」の方かもしれません。
なにしろ、男子26人+女子27人の合計53人の子供をもうけたそう
ですから、気楽には信じられない人数です。

最初の子(長女)が誕生したのが1789年、家斉17歳の時で最終
の子(二十七女)の誕生が1827年、家斉55歳の時。
※もちろん、昔のことですから「満年齢」ではなく「数え年」ですヨ。
  つまり、38年の間に53人の子供が誕生したことになるわけです。


この「大事業」?を完遂させるべく・・・オットセイで精をつけていた
・・・ので「オットセイ将軍」と呼ばれたそうですが、この手の「面白
すぎる話」は多少割り引いて聞いておく方が無難かもしれません。

それはともかく、やたらと「子だくさん」だったことは事実で、では、
どうしてこんなことをしたのか?それとも、そうなっちゃったのか?
あるいは、何かしらの理由でそうせざるを得なかったのか?
ここらあたりをぜひ知ってみたいものです。

この「子だくさん」も、実際に成年まで生きた子供は約半数の28人
だったそうですから、早死した子供も少なくなかったということに
なります。
さて、「子だくさん」の理由については、一般的に下記の説明が
とられているようですが・・・

~成人した子供をドンドン他家の養子に出していることからみて、
「将軍の子」を迎える側にとってはなにかと物入りにもなろうし、
その上「血縁関係」ができることにもなり、つまり、将軍家側には
このことでその大名を「経済的・政治的」に統制・牽制する意図
があったのではないか?~

まあ、そう言われれば「違う」とは言いにくいのですが、それでも
「ひとつの大名家をコントロールするために一人の子供を作る」
率直に言って、この方法はあまり「効率」がよくないのでは?

半世紀もの間、将軍職に君臨した上に、その後も大御所として
幕府の実権を握り続けた大権力者であったことを考え合わせれば
その方法がいかにも「姑息」な印象。

なにぶんにも大権力者なのですから、本気で大名を統制・牽制
したいのであれば、リスク50%を背負った「子づくり」に頼る必要も
なく、素直に己の政治手腕を発揮すれば達成できることなのでは
ないでしょうか?

ですから、「子づくり」の結果に「大名家への養子」ということは
あったにしても、「大名家への養子」を目的として懸命に「子づくり」
に励んだものだとは少しばかり考えにくいのでは?

では、単に「女性が趣味」だった?
不幸なことにワタシには「大奥」での生活経験がないために軽々な
ことは言えませんが、それでも「53人」という結果(子供数)は
さすがに多すぎるような気がします。

ではでは、・・・? よくわかりません。
よくわからないからこそ「迷宮入り」とタイトルしたのですから、
ワタシがやっていることは理屈に合っています。
ただ、その「家斉の死」については少し気になる点があります。

その最期は「誰ひとり気づかぬうちに息を引き取った」とされて
いる上に、そのことによって担当医師が処罰を受けています。

また、その「死亡日」についても、「関係者?の日記」と「幕府の
記録」との間には20日以上のズレがあり、これも不可解です。

まあ、しかし、家斉ほど「女性環境」に恵まれていた?人物が、
「誰も(もちろん女性も)いないところ」でコロッと死んじゃうんです
から人生って本当に分からないモノですねェ。

ひょっとして、後世に家斉の遺言書?が発見されることがある
かもしれませんが、おそらくそこにはこう書かれていることと
思われます。 「死ぬ時くらい女性のいないところで・・・」

今ひょっとしてアナタ、「そんな願い・言い草はゼイタクすぎる!」
って、チラッと妙なお腹立ちやジェラシーを感じたのでは?
いいえ、ワタシは天地神明に誓って少しも、全然、これっぽっち
も感じませんでしたが・・・

いずれにせよ、この大奥を維持するために使った費用もハンパ
ではなかったようで、これが幕府の財政面での寿命を縮めた、と
する見方もありますが、事実、家斉の死(1841年)から大政奉還
(1867年)まで、わずか26年しか残されていなかったのです。


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    Excerpt: こういうことに触れるのは一種の「タブー」であり「掟破り」かも 知れませんので、最初に~以下の推理?は全くの「空想」 であり「フィクション」である~ことを明確にお断りしておきます。 ※決して興味本.. Weblog: ヤジ馬の日本史 racked: 2013-01-30 22:31