日本史の「謎解き」01信長の財テク

信長の政策「楽市楽座」と「兵農分離」はセットで説明されることが
多い。一般的には「楽市楽座」政策で生みだした資金を
「兵農分離」推進に回した、とするスジ書きだ。
ただ、その具体的な説明についてはあまり多くない印象がある。


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~兵農分離~
そもそも「楽市楽座」自体は、どうも信長のオリジナルということ
でもないようで、それより以前に近江などでは既に行われて
いたらしい。
しかし、近江の六角氏がその経済力で勢力を拡げた、という
評価にはなっていないことからみても、信長はそれとは異なる
運営方法を取っていたものと、一応の推測はできる。
六角氏の場合は、本来の意味での「自由市場・フリーマーケット」
に近いもので、大きな資金は動かなかったのかも知れない。

では「楽市楽座」で「収入」を得たとする信長の方法とは、
どのようなモノだったのか?
イメージしやすいのは、現在と同様な「所得税」のような負担を
参加商人に課したという方法だが、あるいは昔のことだから、
場所の賃料タイプか、それとも単純に一種の上納金方式だった
ものかもしれない。
ひょっとしたら、特定の「政商」もどきが仕切っていたとも
考えられなくはないが、この辺がどうもスッキリしていない。

スッキリ説明されていないことは、他にもある。
もし、お説の通り「楽市楽座」政策が財政を豊かにしたという
ことであれば、その理論理屈を信長はいつどこで学び習得した
のだろうか? いわゆる生きた「経済理論」をである。
信長はもともと「武将」であって「商人」ではない。
それに、若い頃の信長が「丁稚奉公」をしていた、という話も
伝わっていないし、この時代にはまだ「松下政経塾」はないゾ。

信長は天才である。天才だからこそ成し得たのだ、という説明
では具体性に欠けており、実はこの二つの疑問に対する
合理的な解答にはなってはいない。
すると、このツッコミに対しては面倒臭さが先に立って、結局の
ところ、そんなもん知るか、ということになってしまう。
事実そのような対処が続いてきたからこそ、いまだに明確な
説明には至っていないということであろう。

「楽市楽座」と「兵農分離」の二つの政策は、本当にセットに
なっていると考えていいものなのだろうか?
ここからはSFになるが、ひょっとしたら、信長には歴史の
オモテには出なかった「金山銀山」のような「ヘソクリ」が
あったのかもしれないゾ。
そのことが、たまたま「楽市楽座」政策とダブっていただけの
ことで、もともと「楽市楽座」と「兵農分離」は無関係だった、
としたらどうしましょう。

これだと、信長は「丁稚奉公」することも「松下政経塾」で
学ぶことも不要のまま「兵農分離」に取り組めたことになる。
なんとも都合のいいSFではないか。

だったら、なぜその「金山銀山」のことが表沙汰にならなかった
のか、って?それこそ、信長が天才だったからに他ならない。
自分の「サイフ」の中身を見せなかったところが他の武将とは
一味違うのである。

それではさらに、信長の死後もなぜその「秘密」がバレな
かったのか? そんなことは、信長の後の天下人・秀吉が
ダンマリで「着服」したからに決まっている。
その後の秀吉のハンパじゃない財産を見よ!
決まっている、に決まっている!

話がやや感情的になった。
それにしても、信長の「合戦」について詳しい人の多さに
比べたら、「楽市楽座」について詳しい人は少ない。
「楽市楽座」から「兵農分離」までの道筋について、声を上げる
人がもう少し増えてもいいのではないだろうか。
この道筋について存知の方は、ビシビシ教えてくださいナ。

ちなみに、信長も秀吉も揃って「日本史・愛知県人会」
メンバーであることを付記しておきます。


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