信仰☆謎の建立

その国の首都の「シンボル」とも言える巨大な建造物に
ついて、実はなにも分かっていないのである。
誰が?いつ?何の目的で造ったのか?その費用は?
とっくに滅亡した古代文明の話ならともかくも、
これが「鎌倉大仏(高徳院)」のことであれば、少しばかり
違和感がある・・・と言うより、むしろ大いに「変」だ!


画像
鎌倉の大仏
「鎌倉幕府」という言葉が示すように、鎌倉は、
最初の武家政権のいわば首都とも言える土地である。
人里離れた秘境ではない。
まして、その土地にあるモノが信仰の対象「仏様」で
あれば、当然多くの注目や関心を集めたはずだ。

それにもかかわらず、鎌倉幕府の公式歴史書である
「吾妻鏡」にも「明瞭な記録」が残されていない。
要するに、これほどの建立物でありながら、その発願者・
動機・経緯・時期・資金の出所などの肝心なところが
よく分かっていないのである。すご~く不自然ではないか。
だとすれば、この不自然さの裏には何かが隠されている、
と考えたとしても、一概に下司のカングリだとは
言い切れないゾ。

まず第一に「吾妻鏡」によれば、僧・浄光の勧進によって
1243年に「開眼供養」が行われた、らしいのだが、
一個人(僧・浄光)がそれほど多くの寄付金を集められる
とは思えない。仮に少なからず寄付金が集まったとしても、
これだけの大事業を一個人の力で完成させたとは考えにくい。
当時としてはかなりのビッグ・プロジェクトであったはずだ。
まして、その土地は首都・鎌倉なのである。

だから、幕府がそれを知らなかったとも思えない。
はやり、幕府の黙認もしくは許可または後押しなど、
何らかの関与があったと考えた方が自然であろう。

~ここから先は、ヤジ馬の独断的な推理になる~
建立の目的はひょっとしたら「奈良の大仏」と同じ性質の
モノではなかったろうか。要するに「怨霊鎮魂」である。
では、誰の「怨霊」を鎮めるのか。
当然、幕府の「創業者一族」である頼朝・頼家・実朝ということに
なろう。その土地が鎌倉だからである。

その目線で見てみると、二代・頼家もその弟である
三代・実朝も実は「暗殺」されていることに気がつく。
しかも、ふたりともかなり無残な殺され方をしている。
入浴中に襲撃された二代・頼家は、紐で首を絞められた上に、
急所を押さえられ刺し殺されている(1204年)し、
三代・実朝はと言えば、雪の積もる鶴岡八幡宮の境内で
襲撃を受け、暗殺犯によってその首を持ち去られた、とある。
(1219年)

だが、初代・頼朝の死はイベント帰りの「落馬」が
原因ではないのか?
実は「吾妻鏡」のこの説明もかなり怪しい感じが漂う。
「創業者」であり「武家の棟梁」の最期であるからには、
仮に「落馬」が事実であったとしても、故人の名誉を
守るために、そこはいくぶんの脚色を心掛けるのが
日本人の自然な心情であろう。
普通なら「死者を鞭打つ」ようなことはしないハズだが、
「落馬」ではむしろ「ドジな頼朝」を強調していることになる。

この頃の武士団は自分たちの地位を認めさせるために、
朝廷との対立を深めていた、言わば「反朝廷派」の
存在である。
頼朝をトップに担ぐことで幕府を構築し、一応の成果は
上げたものの、その頼朝自身は自分の娘を入内させる
ことに熱中し始めていた。
天皇家の親戚になろうとする姿勢は、武士団からすれば、
頼朝が「親朝廷派」に寝返ったと見えたハズである。

元々、頼朝は朝廷に武士団の団結ぶりを
誇示するための、いわば「広告塔」に過ぎない。
朝廷の親戚になりたがるような広告塔・頼朝なら、
この時点で「御役御免」である。
だから、おそらくは後の頼家実朝と同様にこの頼朝
「暗殺」されたもの、と思うのである。(1199年)

三人の暗殺に大きく関わっていたのが北条時政
はじめとする「北条一族」であることは間違いない。
なぜなら、暗殺事件と並行して着々と幕府内の
地位固めを進め、しかもそれに成功しているからである。
だから、頼朝の妻・北条政子は夫とふたりの実子の
「暗殺」を前もって知っていたことになる。
現代人の感覚からすればかなり怖い話だが、
後に「尼将軍」と呼ばれるほどの女性が、実家の意思・
動向・繁栄にまるで無関心だったとは、到底信じられない。

この血塗られた権力奪取の経緯には、さすがに
北条一族も後ろめたい気持ちがあったのだろう。
当然、鎮魂の「作業」を必要としたが、その場所は
「鎌倉」である必要があったし、北条一族の名が
前面に出るようなことも避けなければならなかった。
出れば自らの「行為」を公表したも同然だからである。

そのためには、アイマイに「僧・浄光」の勧進によるもの、
とせざるを得なかった。ひょっとしたら「僧・浄光」というのは
そのためにでっち上げた架空の人物なのかも知れない。
というのは、この「僧・浄光」の経歴も、
実は「よく分かっていない」からである。

鎌倉大仏の開眼供養は、三代・実朝暗殺事件より後の
1243年頃・・・とされているようで、これならこの独断推理
「怨霊鎮魂」説も、少なくとも時系列の点では矛盾しない。

誰にとっても「死」は避けられないが、せめてその時まで、
首と胴は繋がっていて欲しいと思う。 「実朝」風は嫌だ。
離れていたら鼻が痒くなっても掻けないのだゾ。


採点をお願いします→ 5バツグン 4よろしい 3まあまあ 2イマイチ 1スカタン
               ~励みになります。ご協力ありがとうございました。~

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント

2011年11月26日 18:45
こんばんは

なるほど、鎌倉大仏怨霊鎮魂説
説明を聞いて、十分に納得できますね

頼家、実朝は明らかな暗殺にも関わらず
怨霊を鎮魂した形跡が見当たらない方が
不自然ですよね
それが大仏だったとは(フムフム
納得いきますw
2011年11月27日 16:12
bonbonnoさん、コメントありがとう。
今度は「BUTU ROAD-仏道-」についても教えてください。

この記事へのトラックバック