「歪な道のり」その負債

「檀家制度」では、檀家さんの葬式や供養などを特定の
お寺さんが独占的に行なう。
この日本特有の制度を作った江戸幕府には大変都合の良いモノ
だったに違いないが、ひょっとしたらその「ツケ」を21世紀の
日本人が背負わされているのではないだろうか。

この「檀家制度」は、お寺さんの側からみれば宗派間・寺院間
での「檀家さん獲得競争」の必要もない、いわば「護送船団」
方式であり、新規の「檀家さん」を獲得する努力もまったく必要が
なくなったことになる。

他宗派を批評する必要もなければ、自宗派のメリットを説くことも
必要がない。 本来あるべき宗教・信仰の観点からすれば、
これは、明々白々に「歪な姿」と言わざるを得ない。


画像
~さすらいのお坊さん~

それから40年、間違えた400年。
※「それから40年」は、綾小路きみまろのセリフだった。

唐突だが「自分の命」は誰のものか?
日本では、大方「それは自分自身のモノである」となる。
両親以外にその直接的な責任者も見つからないし、ましてや
神様・仏様が「自分の命」の関係者という概念もないのだから
無理もない。 
だから日本では、自分のモノを自分の意志でどうこうするという
考え方になり勝ちで、(周囲に対する迷惑を詫びる気持ちはもっても)
「自殺」に対する「罪悪感」は希薄になりやすい。

ところが、キリスト教やイスラム教などの「一神教」の世界では
そういう結論にはなりにくい。
なぜなら「自分の命」は神様が作ったのだから自分の都合で
勝手に「変える」ことは、神様への背信行為・裏切りになって
しまう。 このことには大きな罪悪感が伴うために、結果として
「自殺」の抑止力としても機能している。

一方では、21世紀の日本では毎年三万人を超える「自殺者」
を出している。
この数字は世界各国に比べても驚異的に高い。

その「理由」については、多くの見解があるだろうが、長い間、
本来あるべき「宗教活動」を停滞させた「檀家制度」がまったく
無関係だとは言いきれないのではないだろうか。

気持ちが塞ぎ、心が行き詰ったときには、カタチだけの信仰心
では「救い」にも「自殺」願望の歯止めにもならない。

確かに、国のGNPは伸びた、個人もなんとか車を持てるように
なった、スーパーには商品が溢れている、そんな21世紀の
日本なのである。
それでも「自殺者」が多いということは、モノやカネではない
「別のファクター」が不十分だと断言できそうである。

その「別のファクター」を担うべきが、もし日本の宗教という
ことなら、一日も早く「檀家制度」の幻影から脱却することが
必要なのではないだろうか。 そう願いたい。

日本人の信仰心のチャランポラン・トンチンカン・チンチクリン
さは年末の一週間によく表れている。
その日にクリスマスを祝い、大晦日には除夜の鐘、元旦には
神社へ初詣でである。

と、苦言を呈しながら、今ヒョイと気が付いたが、
なんだ!私もその通りのことをやっているではないか!




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