~木太刀と無念腹~

これも地元・愛知県でのお話である。
知多半島の割合先端に近い地域の伊勢湾側に面した場所に
野間内海 もある。
生きた時代は異なるが、源義朝と織田信孝の二人の武将が
この地で生涯を終えている。
二人の「死」は決して穏やかとは言えないものであった。

ご存知のように、鎌倉幕府の創始者・源頼朝の実父がこの
義朝である。 「平治の乱」において平清盛に敗れた義朝は、
京を脱出、この尾張国・野間まで逃亡してきたものの、身を
寄せた家臣の宅で裏切りによって暗殺された。

入浴中に襲撃されたということだから、無論「丸腰」であった。
このとき、義朝はこう叫んだと伝えられている。
「せめて我に(一本の)木太刀ありせば…」

その故事から、その湯殿があった野間大坊に、木太刀が奉納
されるようになった・・・そうだ。これが1160年の出来事である。

ちなみに、13歳の頼朝が義朝一行とはぐれて、平家に捕えられ
たのは、この敗走中のことである。
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一方、織田信孝の死は源義朝の死から四百年以上も後の
1583年のことである。
前年、父・信長が「本能寺」で倒れたことによって、その後の
天下取りを狙う秀吉には、織田家の血を引くこの信孝が何か
と邪魔な存在になった。
結局、秀吉との決戦に破れた信孝は、この野間の地で切腹を
命じられることになったのである。

この時の信孝の辞世の句(注1)が伝わっている。
「昔より主を 討つ身野間 なれば、報いを待てや羽柴筑前」
大意>義朝の昔から主を討つといわれる内海で
    (討つ身=内海)自刃する私の恨みはハンパじゃないぞ。
    秀吉よ、タダでは済まさんからその報いを待っていろよ。


ちなみに、この信孝の切腹には「信長公記」の著者・太田牛一も
立ち会ったそうである。
ちなみのちなみに、この時の切腹は傷ついた自らの腹から腸を
掴んで床の間の掛軸に投げつけたという、かなり
凄まじい、いわゆる「無念腹」(注2)であったらしい。
その時の血痕が残った掛け軸も現存している、とのことである。

注)1この辞世の句が信孝の残したものかどうかについては
   疑問視する向きもある。
注)2切腹の際に腸を投げつけたという話は、医学的検証
   からは不可能であるとの意見もある。


それにしても「丸腰の人間を寄って集って襲う」のも「無念腹」に
しても、知って楽しくなるようなエピソードではないが、
その後に二人とも丁寧に供養されていることが救いではある。

そうだ、私もたまには「お墓参り」くらいはしておこうッと。

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