~沈黙の家系図~

素直な問いではないが、下の3人の共通点はなにか?
○後小松天皇 ○豊臣秀頼 ○徳川家光 
ヒント・キーワードは「父親」である。
家系図に表されているのが、本当の「父親」なのか、
実はその点に少し疑問がある人物を並べたものである。

推測と想像でモノをいうもの軽々しいことではあるが、
ここは大人の心で週刊誌のゴシップ記事程度に
受け止めください。 では順に追っていこう。

まず、後小松天皇の場合はどうだろう?
後小松誕生のころ、将軍・足利義満は数多くの女性問題で
朝廷・貴族の家庭をかき回している。
自分の妻に対しリンチを加えたり、自殺をわめいたりした
後円融天皇も「妻を寝取られた」被害者の一人と考えられるような
そんな環境はあったのである。
その後円融の「子」が後小松天皇なのだから、
疑えば後小松の父親が義満という可能性もゼロではない。

状況証拠だが、義満は死後朝廷から「上皇」を宣下されている。
このことは、権力社者として君臨した義満を、単に顕彰しただけの
ことかも知れないが、あるいは朝廷も後小松の「実父」であること
を、承知していてこのように扱ったという解釈も成り立ちそうだ。

実は、その後の天皇選びも少し微妙なのである。
後小松の崩御後を継いだ実子・称光天皇は、病弱でもあり子を
なさず亡くなってしまった。 その後継者として一番近いところに
いたのが、称光の兄である一休宗純(一休さん)なのだが、
実はそうはならなかったのである。 なぜか?

もし、義満が後小松の父であることが事実だとした場合、称光に
子はなく、一休さんは僧であるからこれも子はないために、
朝廷内における義満の血筋はきれいに排除されることになる。
朝廷には「義満の血」断絶という大きな目的があって、敢えて
一休さんを選択しなかった、ということも考えられるのである。
ともあれ、あまりややこしい「子づくり」はするものではない。


続いて豊臣秀頼である。
秀頼の父親は、あの豊臣秀吉と言うことになっているが、このこと
については昔から疑問視する人も少なくないようである。
というのは、秀吉の子を授かったのは淀殿だけ、という点に
少なからず引っかかりを覚えるのであろう。

若い頃から一緒に暮らしてきた正妻ねねにも子供は授から
なかったのに、晩年になって、淀殿だけが続け様に子宝
(最初の子・捨と次の秀頼)に恵まれた、というのは疑えば
疑える。 証拠のない(あれば既に定説になっている)話だが、
やはり淀殿と大野治長の間の子、というあたりが真相では
ないのだろうか。 そのことに秀吉が気づかなかった、とは
考えにくく、おそらくはすべてを知っていただろうと想像できる。

では、なぜ沈黙を守ったのだろうか。
秀頼は少なくとも自分の最愛の女性・淀殿が生んだ子である。
秀吉にすれば、その秀頼を認知することで、
「跡取りが存在する」という事実を広く天下にアピールして、
徳川に対する牽制としたかったのではないだろうか。
後継者不在では、たちまち滅ぼされる厳しい時代なのである。

おそらくは、大権力者・秀吉にとっては「苦渋の決断」と言える
ほどのものだったろうが、その深謀遠慮が実らなかったことは、
衆知の通りである。

最後にその徳川の、三代将軍・家光のことになる。
系図の上では、家光は二代将軍・秀忠とその妻・江の間に
生まれたことになっている。
ところが、この夫婦は揃って兄・家光よりもその弟・忠長を愛し、
三代将軍職も忠長に継がせたかったようなのである。
何故だろう。これに関しては妙に納得できてしまう説があるのだ。

弟・忠長の両親は確かに秀忠・江夫妻だが、兄・家光の両親は
これとは違うというものである。

父は家康、母は春日局、その間に生まれたのが家光であり、
当の家康はその家光を秀忠・江夫婦に与え、自分たちの子供と
して育てさせたという話である。
秀忠・江としては、そんな家光より実の子・忠長の方がかわいいに
決まっている。 当然、将軍職は忠長に継がせたいのだが、
さすがの江も義父・家康の意向には逆らえず、三代将軍は結局の
ところ家光に落ち着ついた、というものである。

「父・家康、子・家光」説にはいくつか傍証もある。
まず、家光自身に「自分は二代目である」との意識があったよう
だし、また双方の名前にもその影が見えなくもない。
家光の「家」は家康、忠長の「忠」は秀忠に、それぞれ重なって
いるのである。

実は家康と春日局の関係についても「なるほど話」がタップリ
あるのだが、これは別の機会ということにしよう。

と言うわけで、親子の関係というものは、「それを知っている」母親
に対し、父親は「それを信じている」だけの立場で、言い換えれば
母親には「科学」、父親には「宗教」なのです。
ホント、歴史からは人生の深淵が学べますね。

この記事へのコメント

匿名
2012年12月10日 13:01
家光を家康と春日局の子とするのは、無理があります。
何故ならば、春日局は秀忠の後継が、忠長になることを想定し、実子を忠長に仕えさせているからです。
寧ろ、家光実父の可能性が高いのは、家康落胤の土井利勝でしょう。
秀忠は征夷大将軍につく際、家康から源氏長者を譲られておらず、家光は征夷大将軍を継承すると同時に、源氏長者を得ています。
この事から、源氏長者を秀忠に代わり得た人物こそ家光の実父であり、それが土井利勝ではないかと考えています。
忠長が排除された背景には、織田氏を幕政から排除したい力があったためです。
秀忠の男系は、会津藩の家系が江戸後期まで保たれていたのに対して、利勝の男系は家光の男系と同じく、短命だった事実より、ほぼ間違いないと思います。
住兵衛
2012年12月12日 11:48
ご教示ありがとうございます。
家光自らの「二世将軍」との名乗りが引っかかって、そのように考えたのですが、確かに少し単純すぎるかもしれません。
土井利勝の経緯は初めて知りましたので大変勉強になりました。このようなご指摘をいただくと刺激にもなりうれしいですので今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

この記事へのトラックバック

  • 「目次」 ~2012・03・31

    Excerpt: 気がついたら、スタートから半年ほど経っていましたので、 これを機会に今までの記事を一覧整理してみました。 今後ともよろしくご愛顧のほどお願いいたします。 by 住兵衛 Weblog: ヤジ馬の日本史 racked: 2012-03-31 15:00