~アレってダレ?~

「古事記」は稗田阿礼が「暗誦」した内容を、太安麻呂が書いて
できたものと、最初に教えられたときにも違和感があった。
なぜ、稗田阿礼は「暗誦」に頼ったのだろう、
いくら記憶力が優れているとはいえ、メモくらい取れば
いいのに、ナニカ変!こんな感じである。

その後になって、「暗誦ではなく朗読」説の存在を知ったが、
それにしても、「暗誦」と「朗読」では随分違うのではないか。
テキスト無しが「暗誦」で、「朗読」なら当然テキストはある、
ことになる。
実際には「誦習」という言葉が使われているようで、これを
「暗誦」と理解するか、または「朗読」と解釈するかの違い
らしい。

しかしながら、稗田阿礼は~抜群の記憶力の持ち主で、
一度目や耳にしたことは決して忘れなかった~人物であったと
紹介されれば、まあほとんどの人が「暗誦」の方をイメージして
しまうことだろう。

その阿礼の「誦習」を筆録した側の太安麻呂については、
たとえば「711年に正五位上に叙せられた」などの記録もあり、
実在した痕跡が残っているのだが、阿礼自身については、
生没年も不詳とされている上に、「阿礼は女性」説が在あること
からしても、その人物像がハッキリしていないのは確かなようだ。
もっと言えば実在したのかどうかも疑えば疑える雰囲気はある。

それなら、なぜ「稗田阿礼」という名前だけは明確に残っている
のだろうか。 要するに「阿礼って誰?」と言うことになる。

それについて紹介しておきたいのが、哲学者・梅原猛氏の見解
である。 氏の歴史に対する見解の多くは、歴史学会には
受け入れられていないようだが、歴史ファンとしては、異色の
意見もまた楽しからずや、である。

少し長い引用になるが、梅原猛氏の見解はこうだ。
(「思うままに」 H・21・9・14の中日新聞・夕刊に掲載)

(中略)~阿礼は「年はこれ廿八」とあるが、
本居宣長は阿礼が二十八歳であった年について、
歴史書編修がまだ完成していなかったことを考えて、
その年を天皇崩御の年、つまり天武十五(六八六)年と推定し、
『古事記』撰集の詔が下された和銅四(七一一)年には
阿礼は五十三歳であったことになると語る。

多くの学者の考証によれば、不比等は斉明天皇五(六五九)年の
生まれである。 とすれば不比等も和銅四年には数え年で
五十三歳であったことになる。
そして「人となり聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払えば
心に勒す」とは、阿礼が大変賢く、文献読解力が抜群であったと
いう意味であろう。

不比等は元の名を史といい、歴史家及び法律家としても卓抜な
能力を持つ並びなき智謀の持ち主であったことは間違いない。
このように考えると、阿礼はみごとに不比等と重なるのである。

稗田阿礼というのは貧乏な生まれという意味の名であるが、
神代史において藤原氏の祖先のみが功績を立てたという歴史書
を作ったのは稗田阿礼というしがない氏族の人間であることを
示そうとする、不比等一流の自己韜晦術であったに違いない。

とすれば、不比等はその巧みなる韜晦術によって、本居宣長、
平田篤胤をはじめ『古事記』研究者すべてをみごとに欺いたと
いわねばならない。~

と、書いている。
ちなみにヤジ馬にとっては「韜晦(とうかい)」という言葉は初体験
で、読み方も意味も分からなかったが、「自分の正体を詐称」する
ことと理解しておきました。 まあ、名探偵・祝十郎が正体を
隠して「月光仮面」と名乗るようなものかナ。

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