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みんなの「朱子学」ブログ

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日本史の「タブー」07 技術革新 300年の空白
日本史の「タブー」07 技術革新 300年の空白 遥かヨーロッパからこの日本に「鉄砲」が伝わった時期は、戦国の世 真っ只中の1542年か1543年のことだとされています。 いわゆる「鉄砲伝来」ですが、そのハイテク武器が最初に上陸した 大隅国・種子島の、今なら中学生ほどの年齢だった若き領主・種子島 時堯(1528-1579年)は、これに大きな関心を寄せ、大枚をはたいて 二丁を購入するや、自らも熱心に射撃練習に精を出しました。 今風に言うなら、初めて自分用の「スマホ」を持てた中学生というところ でしょうか、この時代のハイテク機器に夢中... ...続きを見る

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2018/07/05 00:01
日本史の「謎解き」28 民族DNAは競争を嫌う?
日本史の「謎解き」28 民族DNAは競争を嫌う? 戦国の世の最終勝者となり、その後に江戸幕府を創立した徳川家康 (1543-1616年)は、幕府の公式学問として「朱子学」を採用しました。 もともとは「孔子」(前552-前479年)が始めた「儒教」を、千数百年も後に なって南宋の「朱熹」(1130-1200年)が再構築したものが、この「朱子学」で あり、これはまた「新儒教」ともいうべき位置づけをされています。  ちなみに「朱子」とは「朱先生」を意味する尊称です。 ...続きを見る

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2018/05/20 00:01
日本史の「トホホ」25 ペリー代将の私的なぼやき
日本史の「トホホ」25 ペリー代将の私的なぼやき アメリカ海軍マシュー・G・ペリー代将(1794-1858年)率いる東インド艦隊が 日本を訪れた事件。 いわゆる「黒船来航」(1953年)ですが、結果として これが十数年後に起きる「明治維新」(1867年?)の引き金になったことは 紛れもない歴史的事実です。 ...続きを見る

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2018/02/05 00:01
日本史の「信仰」10 朱子学生まれの銭嫌い
日本史の「信仰」10 朱子学生まれの銭嫌い 12世紀・南宋の儒学者・朱熹(1130-1200年)が興した「朱子学」の思想は、 いわば「新儒教」との位置づけがなされていますが、オリジナルの 「儒教(孔子)」に比べると、随分とヒステリックな一面を備えていました。 ...続きを見る

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2018/01/15 00:01
日本史の「逆転」21 イトコ同士の真逆な信念
日本史の「逆転」21 イトコ同士の真逆な信念 戦国の世の最終勝者となり、江戸幕府を開いた徳川家康(1543-1616年)の 子孫にはこんな人たちも混じっていました。 家康→  三男・秀忠→庶子・保科正之(1611-1673年) 家康→十一男・頼房→三男・徳川光圀(1628-1701年) ここでの保科正之の父“秀忠”と、徳川光圀の父“頼房”とは、24歳離れた 兄弟(共に家康の子)ということですから、要するに正之と光圀は共に家康の孫 であり、両者は17歳違いの「従兄弟(イトコ)」の間柄ということになります。 ...続きを見る

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2017/09/10 00:01
日本史の「誤算」06 ”盛者必衰”家康の回避方程式
日本史の「誤算」06 ”盛者必衰”家康の回避方程式 隣国の遠江・駿河を治める大大名・今川義元(1519-1560年)に屈する形で 人質生活を送ったのが、後に徳川家康(1543-1616年)と名乗ることになる 若き日の松平元康でした。 当主・元康自身が人質境遇ですから、その家臣達はほとんど奴隷?の扱いを 受け、そればかりか自領・三河は今川家の植民地?もどきの状況にあったと いうことになります。 ...続きを見る

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2017/07/30 00:01
日本史の「世界標準」15 ”未熟”が幸い?原理主義
日本史の「世界標準」15 ”未熟”が幸い?原理主義 最近、「原理主義」という言葉をよく耳にします。 この厳密な定義は結構難しいようですが、幾分は「根本主義」 とか「教条主義」とかの別の言葉にも重なる印象があって、 乱暴にくくるなら、まあ「基本」や「原則」を徹底的に重視する 考え方といったところでしょうか。 ...続きを見る

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2015/05/20 00:01
日本史の「忘れ物」20 能はマルだが芝居はペケだ
日本史の「忘れ物」20 能はマルだが芝居はペケだ 現代での人気度を比べるなら、「歌舞伎」の方が「能」よりは いささか上という雰囲気を感じます。 ところが少し前の時代だと、これが逆になる印象で、実際 江戸幕府が「式楽」※として採用していたのは「歌舞伎」ではなく、 「能」の方でした。 もちろんそこには伝統ある「能」に対し、駆け出しの「歌舞伎」と いう大きなハンディもあったのでしょうが、でも理由は本当に それだけだったのか? ※公式行事に用いる音楽や舞踊。 ...続きを見る

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2015/04/10 00:01
日本史の「冗談?」10 純血エリートの悪い癖
日本史の「冗談?」10 純血エリートの悪い癖 幼い頃から聡明かつ真面目で堅物、その上とっても毛並みが 良い・・・江戸中期の老中・松平定信(1759-1829年)が、まさに この通りの人物でした。 ...続きを見る

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2014/06/10 00:01
日本史の「謎解き」12 ピンハネ?は見ぬフリを
日本史の「謎解き」12 ピンハネ?は見ぬフリを 江戸幕府は、その期間に何度かの「改革」を試みていますが、 そこには、いつも「財政再建」という課題が伴っていました。 しかし、なんでまた「財政再建」が必要だったのか? ...続きを見る

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2013/11/05 00:01

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