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zoom RSS 日本史の「トホホ」26 京の大仏様にツキはない

<<   作成日時 : 2018/05/30 00:01   >>

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日本の場合、「大仏」サマと言えば、まあ普通には
「奈良の大仏」(東大寺廬舎那仏仏像/752年開眼)か、あるいは
「鎌倉の大仏」(高徳院阿弥陀如来像/開基時期不明)あたりを、
イメージするものと思われます。
では、この他に大仏サマがないかのと言えば、実は「さにあらず」で、
古い時代に限っても、たとえば方広寺には「京の大仏」(毘廬舎那仏坐像/
1595年建造)と呼ばれた大仏サマもおられました。
「・・・ました」と過去形の表現を用いるのは、実はこの大仏サマ、現在は
影も形もなく消滅しちゃっているからです。

ちなみに、この方広寺とは、後に梵鐘の銘文に「国家安康/君臣豊楽」と
記した豊臣家に対して、徳川家康(1543-1616年)がイチャモンを付けた、
いわゆる「方広寺鐘銘事件」(1614年)で有名な方広寺です。

この「京の大仏」サマを最初に建造したのは豊臣秀吉(1537-1598年)
でした。
「奈良の大仏」サマに倣ったこの「京の大仏」サマは、1586年に造営計画が
始められ、その高さ約19Mという本家?「奈良の大仏」サマ(全高約18M)を
凌ぐスケールを誇り、1595年にほぼ完成した「大仏殿」に安置されました。 
ただ、素材は本家「奈良の大仏」サマの鋳銅製とは異なり、「木製金箔塗」
で製作されました。

鋳銅製にすると、必然的に「工事期間」も長期になってしまう。
おそらくは、秀吉がこのことを嫌って「木造」を選んだのでしょう。
なにせ「人間五十年」という言葉があった時代のことであり、しかも計画が
スタートした時点で、既に「齢五十」に差し掛かっていた秀吉でしたから、
自らの威信を世間に示すためには、とにもかくにも一刻も早いお披露目が
必用だったということです。 

〜ええか、よく見てみれッ! 「奈良の大仏」サマより、さらにデッカイ
  この「京の大仏」サマを作ったのは、他ならぬこの秀吉であるぞよ〜

今や余人の及ばぬ「天下人」の地位にあるとはいいながら、ここには
「足軽上がり」という経歴コンプレックスを払拭する計算も働いていたの
かもしれません。

ところがこの大仏サマ、翌1595年に突如として襲った「慶長伏見地震」※に
よって、開眼前に脆くも倒壊してしまいました。
もっとも、「地震」というものは大概の場合「突如として起きるものですから、
上の表現はいささかクドイといえば言えそうですが。
※直下型地震/死者数は京都や堺で1,000人以上と推定。

それはともかく、この時の秀吉は激怒したと伝えられています。
「大仏倒壊」の現場に駆け付けるや、
〜おみゃあ(お前)は、他人様を守る仏でありながら、自分の身さえ
  守れんのきゃあ(守れないのか)!〜

興奮状態にあったためか、ついついお国言葉が飛び出します。

この叱責?だけでは気持ちが収まらなかったものか、秀吉は乱暴にも
大仏サマの眉間に矢を放うという「腹いせ」?行為さえしたとされています。
ただその3年後には、秀吉は大仏の雄姿を見ることなく死去してしまい、
片や大仏サマの「開眼供養」は本体不在のまま「大仏殿」で行われて
います。 言葉にするなら、まことに「ツキのない大仏サマ」です。

その後には秀吉の遺児・秀頼(1593-1615年)が、「京の大仏」サマに
挑みました。
秀頼からすれば、まさに「父ちゃんの見果てぬ夢」(遺志)遺志を継承した
ことになります。
先の「慶長伏見地震」の状況に懲りちゃったものか、今度の秀頼は
「木製」ではなく、奈良の大仏様と同じ「銅製大仏」を目指しました。
父ちゃん・秀吉とは違って、「時間に余裕」のある若い秀頼ですから、ここは
腰を据えて臨んだものと思われます。

ところがこのチャレンジも「大仏殿」が炎上(1602年)するという事故に
見舞われ、結果として挫折します。
これには「失火説」や「放火説」など多数の説があるようですが、ますます
「ツキのない大仏サマ」です。
で、これで打ち止めになったかといえば、さにあらず。
〜三度目の正直〜なのか、はたまた〜二度あることは三度ある〜なのか
はともかくとして、この後も「京の大仏」サマ建造に対する情熱が消えて
しまうことはありませんでした。

方広寺大仏01 方広寺大仏炎上01









方広寺大仏殿/方広寺大仏・火災

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この「大仏殿炎上」の翌年には、家康によって「江戸幕府」(1603-1867年)が
開府され、片やこの頃の秀頼の豊臣家はジリ貧状態にありました。
要するに、この時点の天下人である家康は、前回の焼失から八年ほどを
経た1610年のこと、大仏サマと大仏殿の再建を始め、計画を主導しました。

家康が、諸大名にも応分(あるいはそれ以上)の資金負担を命じたのは
当然です。
何分にも「天下人」の計画ということもあって、うっかりそれに非協力的な
態度を見せようものなら、ボッコボコにされるのは火を見るより明らかです
から、諸大名とてこの命令には従わざるを得ません。

今度の計画は比較的順調に進捗し、1612年には銅製の大仏サマと
大仏殿は完成しました。
この運びは、まさしく〜三度目の正直〜といえますから、大仏関係者には
やれやれの思いがあったことでしょう。

ところが、この大仏サマ、とことんツキがありませんでした。
なぜなら、ちょうど50年後(1662年)にはまたまた突然の?地震に見舞われ
損傷してしまったからです。
ただし、かつて秀吉が行ったように、家康がこの大仏様に「カツを入れた」
という事実は確認されていないようです。
秀吉より家康の方が「性格温厚」だったということではなく、タネを明かせば、
カツを入れようにも、とうの昔に亡くなっている家康には、その術がなかった
ということに過ぎません。

それはともかく、そこでまたまた「造り直し」ということになりました。
木製に比べれば、どうしたって、銅製大仏の方がそれに費やす
「テマ・ヒマ・カネ」が嵩んでしまうものです。
そこで、今度はまた「木造大仏」に戻りました。

ただし、「サイズ」(規模/大きさ)は本家・「奈良の大仏」を凌ぐものにして
います。 なんでも、こんな規模になったようです。
○大仏サマの高さ 奈良=約14M     /京=約19M
○大仏殿の広さ   奈良=約57M×55M/京=約49M×81M

こうして、「奈良の大仏」サマを凌ぐ規模の「京の大仏」サマは誕生し、
この〜三度目の正直〜?は、その後百年以上続くことになります。
ところがギッチョン、その後には、またまた「ツキのない大仏サマ」と言わざる
を得ない状況を迎えてしまいます。

1798年のことと言いますから、ちょうど国学者・本居宣長(1730-1801年)が
「古事記伝」を完成させた頃であり、また測量家・伊能忠能(1745-1818年)が
蝦夷地測量を開始する少し前のことになりますが、大仏殿に落雷。
本堂・楼門ばかりか、木造「京の大仏」サマも焼失してしまったのです。 
あっちゃー!

こんな状況を〜仏の顔も三度まで〜って表現していいのかどうか、
(微妙に間違っているような気もしますが)、ともかくその後に同等規模の
大仏サマおよび大仏殿が再建されることはありませんでした。

ただし、天保年間(1831-1845年)には、これも少し言い回しがヘンですが、
「小ちゃい(サイズの)大仏」サマ?で再建をしています。
いわゆる「天保の大飢饉」で社会が困窮し、各地で百姓一揆が多発して
いた頃のことのですから、さすがに従来規模をもっての再建は憚るものが
あったということかもしれません。

しかしまあ、なんというべきか・・・この「小ちゃい(サイズの)大仏」サマ?も、
ジンクス通りにツキに見放され、火災(昭和48年/1973年)によって
大仏殿もろとも焼失してしまいました。

ちなみに、お店からトイレット・ペーパーの姿が消えてしまったことで
大騒ぎになった「第一次オイルショック」や、韓国の政治家・金大中氏
(後に韓国大統領/ノーベル平和賞受賞)が、東京のホテルから
拉致された、いわゆる「金大中事件」が起きたのと同じ年のことです。

さて、そうした数奇な運命を辿った「京の大仏」サマは、結果として現代
まで残ることができませんでした。 それにしても、後世の「小型大仏」
(小仏?)様を含め、ほとほと〜京の大仏様にツキはない〜



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