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zoom RSS 日本史の「謎解き」28 民族DNAは競争を嫌う?

<<   作成日時 : 2018/05/20 00:01   >>

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戦国の世の最終勝者となり、その後に江戸幕府を創立した徳川家康
(1543-1616年)は、幕府の公式学問として「朱子学」を採用しました。
もともとは「孔子」(前552-前479年)が始めた「儒教」を、千数百年も後に
なって南宋の「朱熹」(1130-1200年)が再構築したものが、この「朱子学」で
あり、これはまた「新儒教」ともいうべき位置づけをされています。 
ちなみに「朱子」とは「朱先生」を意味する尊称です。

家康が「朱子学」を採用した理由の一つには、自らが大きなトラウマを
抱えていたことを挙げてもいいのでしょう。
実質的な天下人の地位を占めていた兄貴分である織田信長(1534-1582年)
が、家臣・明智光秀(153-28?-1582年)の謀反により呆気なく倒れ、また
信長の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉(1537-1598年)が、その後の織田家を
ちゃっかり乗っ取ってしまうなど、家康は同じ時代の人間として、こうした
歴史の傍若ぶりを我が目でナマ目撃?してきたからです。

元はと言えば、光秀は一介の浪人に過ぎず、また秀吉とて身分低き足軽に
過ぎませんでした。
こうした、どこの馬の骨とも知れぬ二人を、城持ちの大名にまで引き立てた
のが、他ならぬ信長だったのです。
ですから、信長の弟分?であった家康の目には、二人のこうした行動が
「恩知らず」どころかまさに「恩を仇で返す」所業に映ったに違いありません。
そこで家康は考えます。
〜徳川幕府に対して、こうした謀反を起こさせないためには、諸大名や
  武士全般に向けて徹底的な道徳教育?が必要であるッ!〜
 

家康がその規範として「朱子学」を採用したのは、親に対する「孝(行)」、
主君に対する「忠(義)」を最高の徳目としていた学問?だったからです。
つまり、諸大名・武士に「孝行/忠義」の精神を徹底することで、
徳川家への謀反を企てることも無くなり、要するにミスタープロ野球こと
長島茂雄氏の引退時の言葉を借りるなら、
〜我が「徳川家」は永久に不滅ですッ!〜 こうなると考えたわけです。

ただ、本場「儒教」ではセット?の扱いになっている「科挙」、つまり
「官僚登用試験」の方にはさほどの力を入れていません。
〜朱子学を徹底するなら、当然に科挙制度も徹底する〜
これが自然な流れであるにも拘わらず、「科挙」制度に不熱心だった
家康のこの姿勢は、いささか不思議な感じがしないでもありません。
ではなぜ、家康は「朱子学重視/科挙軽視」という中途半端?な選択を
したものか?

「朱子学重視」の理由は、先に述べた通り、親に対する「孝(行)」、主君に
対する「忠(義)」、つまりは徳川幕府に対する反逆・謀反の抑止力を期待
したものでした。 言葉を換えれば、
〜「謀略も反逆も裏切りもなんでもあり」だった戦国の世はワシが幕引きを
  したからして、ええか、これからは「秩序・道徳心のある社会」でいくぞよ〜

との意思を広く世間に知らしめたことになります。
確かに、この面では一応は分かりやすい。

しかし、これだけではもう一方の「科挙軽視」の説明にはなっていません。
ちなみに、儒教の本場・中華(中国)における「科挙」(官僚登用試験制度)
とは、人間を(筆者のような)優秀な者と、(アナタのような)そうでない人間に
仕分けするために行うもので、ここで選抜された優秀な者だけを「官僚」と
して採用する仕組み・制度です。

儒教とセットと見られているのは、この「科挙」試験の受験科目?が「儒教」
オンリーになっていたからです。
それも、本場(中国)における科挙(試験)は、競争率も最盛期には3,000倍
にも達したと言われたほどに半端でなく難しいものだったようで、そのため、
一生をその「受験勉強」に費やし、その挙句に最後まで合格できないままで
生涯を終えた人も少なくなかったとされています。

ですから、家康はこうした「過激受験競争」を認めなかったということに
なりそうです。 ではなぜ認めなかったのか?
この状況は武器が筆に代わっただけのことで、「競争」ということに変わりは
ないために、ひょっとしたら、この点が家康の心に引っ掛かったのかも
しれません。

科挙試験01 徳川家康01









官僚登用試験「科挙」/戦国時代最終勝者・徳川家康


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苛烈なサバイバル競争に明け暮れる日常を終わらせて「秩序ある社会」の
構築を目標とした家康にしてみれば、たとえ文官の世界に限ったものにせよ、
文字通り「苛烈な競争」を存在させたままでは、「強い者勝ち」の戦国の世の
風潮を一掃したことにはなりません。
そのために、「強い者勝ち」の原理で行われる「科挙」に冷淡だったという
見方もできます。

しかし、ひょっとしたらそれとは別に、御先祖様から受け継いだ日本民族
特有のDNAが、家康に心の引っ掛かりを生じさせていたとも考えられなくは
ありません。
〜たかが受験とはいえ、こうした競争は結果と
  してイヤでも勝ち組と負け組を作ってしまうから、避けるべきである〜
 
日本人が無意識に持つこうした精神作用?を突き詰めていくなら、
最終的には日本民族が古代から持つ「怨霊信仰」に行き当たります。

要するに〜敗者は怨念を抱く〜という信仰であり、そうした怨念から解放
されないままあの世へ往った人間は「怨霊」となって、現世に祟り災いを
なすと考えられていました。
現代人からすれば、信仰というよりはむしろ「迷信」に過ぎないものですが、
深層心理の部分ではそうした民族DNAを現代日本人も受け継いでいる
ことは間違いありません。

例えば、葬儀の場で披露される弔辞にもそうした雰囲気が現れています。
生前には「すこぶる悪い奴」との定評?を頂戴していた人物の葬儀でも、
弔辞ではひたすら良い点ばかりを並べ、敢えて悪い点には触れないもの
ですが、これも怨霊化しないように、死者の霊を慰撫しヨイショする方法と
して、現代人に受け継がれた御作法?の一つと言っていいのでしょう。

こですから、
〜なんにせよ「競争」とは、結果として勝ち組・負け組を生んでしまい、
  その結果厄介な怨念を発生させるものだから、それを避けるためには
  ハナから「競争」なんてことはさせない方が望ましい〜

戦国の「サバイバル競争」を勝ち抜いた家康自身にも、日本民族の一人で
ある以上、こうした深層心理のDNAが組み込まれていたはずです。

では、人間の優劣を儒教対する知識の多寡で決める「科挙(競争)」
システムの代わりに、家康は何をその基準に持ち出したものか。 
〜先祖から受け継いでいる家の格式/その家に対する社会的評価〜
つまり、それは「家柄」でした。
これなら個々の能力を「競争」させる必要もなく、別の言い方なら負け組を
生まないということですから、怨念を発生させてしまうリスクも小さい。

なるほど、上手い基準を思いついたものです。
ただし、この方法は総じて現代人には評判の良いものではありません。
〜個々の能力をハナから無視した制度なんぞは、機会平等の理念から
  しても言語同断であるッ!〜
といったところでしょうか。

しかし、この「家柄重視」選抜方式は、要するに競争を否定した
「身分固定社会」ということですから、かつてのように、一介の浪人から
大大名にまで出世した明智光秀や、名のない足軽から天下人にまで
上り詰めた豊臣秀吉のような人間を誕生させることのない、俗に言う
〜家老の子は家老〜システムです。
早い話が、根本の部分で(能力)「競争」を否定しているのですから、
これなら「科挙」の出番がないのは当然です。

こうした社会システムはいささか「のんべんダラリ」とした雰囲気を感じ
させるため、他人との競争、つまり「競争社会」を当たり前の在り方と
捉える現代人からすれば、いささか「いびつ(歪)」にも感じられます。
ところが、案外そうではないのかもしれません。

というのは、その昔の聖徳太子(574-622年)も、十七条憲法(604年)で、
こんな言い方をしているからです。 
〜和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ〜
要するに、ギスギスした競争社会はこの「十七条憲法」の理念に違反?
している懸念がないとは言い切れないのです。

こうした精神風土を是としてきた民族・社会に、競争第一主義の「科挙」
制度が根付くはずもありません。
その意味で、「朱子学」を重視しながら「科挙」の方を軽視した家康の
センスはなかなかのものだったといえそうです。

実際、家康自身も自分の後継者を選ぶに当たっては、「科挙」方式に
準じた能力主義を取りませんでした。
優秀な者をということなら、自らの後継に次男・結城秀康(1574-1607年)
を立てる選択肢があったにも拘わらず、家康が選んだのは、真面目では
あるけれども、上に立つ者としての器量は必ずしも満点とはいえない
三男・秀忠(第2代将軍/1579-1632年)の方でした。
家康をそうさせたのも日本民族が持つ「競争を忌避する」DNAだったのかも
しれません。

蛇足ですが、実は筆者自身は儒教の「科挙」方式にも、また家康が採用
した「家柄」方式にも異を唱える者です。
いずれの方式で選抜するにせよ、筆者の儒教能力や、はたまた家柄では、
それこそ「浮かぶ瀬」もあろうはずがないからですが、では、これらの他に
どんな方法があるというのか。
筆者に最も有利な選抜方法ということなら、やっぱり「イケメン度」で決める
べきでしょう・・・でも、これもやっぱり競争ってことになっちまうのかなぁ?



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