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zoom RSS 日本史の「微妙」06 山上に棲むは堅気の衆か?

<<   作成日時 : 2018/03/05 00:01   >>

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同じ言葉でありながら、時代によってその意味するところが違うものも
少なくないようで、たとえば「御家人」という言葉もその一つかもしれません。
〜武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す語であるが、
  中世と近世では意味合いが異なる〜
 こう説明されています。

平たく言えば、〜鎌倉時代の「御家人」は、鎌倉殿(将軍)と直接に、
いわゆる「御恩と奉公」の関係を結んでいる武士〜
ほどの意味になり、
これが、時代が変って江戸時代ともなると、
〜知行1万石未満の直臣のうちの「御目見(おめみえ)」以下の家格〜
つまり将軍に直接の謁見ができない身分という位置付けになっています。
ちなみに、その「御目見」以上の家格の直参は「旗本」と呼ばれました。

また「武士」という言葉にも同様な傾向が感じられます。
その昔には武者・武人・侍・兵者(つわもの)など、つまり戦士・戦闘員の
ニュアンスが強く感じられますが、これが平和な江戸時代ともなると、その
活躍の場は軍事から次第に政治行政等へと移っていったこともあって、
むしろ「官僚(文官)」もどきのイメージに変わっています。

そうした視点で眺めるなら、「茶人」という言葉もその流れにあるのではない
のかえ、と筆者は愚考するのです。
現代では「茶人=文化人」くらいの理解がまあ一般的と言っていいのでしょう。
少なくとも、「茶人」と聞いて政界の権力者とか、あるいは反社会的団体の
有力者などを思い浮かべる人は少数派のはずです。

ところが、これが戦国時代の「茶人」ともなると、必ずしも堅気の衆とは言い難い
一面もあって、なんとはなしに胡散臭さを感じさせる人物も少なくありません。
この時代の「茶人」の代表的な人物として「千利休」(1522-1591年)を挙げる
ことができますが、彼とてその例外ではありませんでした。

本業?の「茶」では、一派を立て多くの弟子も育てたことも確かな事実ですが、
反面では織田信長(1534-1582年)、豊臣秀吉(1537-1598年)という、時の
最高権力者の懐に飛び込んで、政治アドバイザーというか、むしろ政治
フィクサーといった方が適切に思えるような言動、いわゆる「御茶湯御政道」
といわれた手法で多くの大名にも大きな影響力を発揮していたのです。

ですから、それまで仲良しだった秀吉に突如「切腹」を申し渡され、最期を
迎えたその理由についても、茶道に対する考え方で対立したとか、秀吉が
利休の娘を妾に望んだが利休がこれを拒否したとか、要するに通説通りの
「誰にも分かりやすいもの」ではなかったのかもしれません。
多少飛躍した見方をするなら、それとはまったく逆に、絶対に公にできない
「裏事情」が絡んでいたと推理することも可能なわけです。

さて、この利休の弟子に「山上宗二」(1544-1590年)と名乗るお弟子が
いました。 師匠の利休より20歳ほども若い人物です。
師匠・利休と同じく堺の豪商であり、利休には20年もの長きに渡って茶の湯を
学んでいますが、この茶人もまた素直に「文化人」と評するにはいささか憚り
を感じさせる言動を見せているのです。

一期一会51 豊臣秀吉51









一期一会/豊臣秀吉

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権威・権力というものに対し、徹底的に盾突く生き方を己のプライドとして
いた人種?には、これ以前なら、例えば南北朝時代(1336−1392年)の頃
の「ばさら(婆娑羅)大名」を挙げることができます。
彼らは、天皇や公家衆など、いわば名ばかりの権威を軽んじたばかりか、
それに嘲笑・反撥を示す意味で、自らは奢侈な振る舞いや粋でド派手な
ファッションを好みました。

また、それよりずっと後のことになりますが、長かった戦乱の世が終焉した
江戸時代初期には「旗本奴/町奴」と呼ばれたトレンディ族?も登場して
います。
旗本(石高1万石未満)に属する青年武士・奉公人などを「旗本奴」、これに
対抗する形で登場したのが町人出身のかぶき者・侠客で、こちらは「町奴」と
呼ばれました。

時代も身分も異なるものの、どちらも既存体制からややはみ出た生き方に
価値を置き、世間様からはややヒンシュクを買う生きざまを自らの存在意義と
していた点では共通しています。
そうしたライフスタイルを並べてみると、この南北朝時代の「ばさら(婆娑羅)大名」
と江戸時代初期の「旗本奴/町奴」を結ぶ中間的な位置に存在したのが、
戦国時代の「茶人」でははないのかという気もしてくるのです。

宗二の師匠・利休も天皇陵の石を勝手に持ち出したりして、自分の趣味に
使ったりしていますが、しかし弟子・宗二にも同様な振る舞いがあったよう
です。
そもそも「山上」(本姓:石川氏)という名前自体が、考えてみれば大胆不敵な
もので、これは宗二が「山の上」、つまり、山陵(天皇陵)の上を棲家にした
ことの自慢?から来たものらしい。

早い話が、「天皇の権威」について、「それがなんぼのもんじゃい!」くらいに
受け止めていたということです。
ですから、これより以前の「ばさら大名」や、これより以後の「旗本奴/町奴」
を結ぶ線上に、こうした「茶人」なる人種?が存在していたとも
言えなくはないような気もするのです。
「権威・権力なんぞは屁のカッパ」の生き様をアイデンティティとした
この時代の新人類?ということです。

権威・権力なんぞは屁のカッパということは、言葉を換えれば「怖いものなし」
の言動になります。
ですから、千利休は時の最高権力者である豊臣秀吉(1537-1598年)の
怒りを買って切腹を命じられていますし、その弟子であった宗二もまた
同様な最期を迎えています。
ただし、宗二の場合は師匠・利休に比べても、さらに一層凄惨な死に様に
なりました。

「理非曲直」※をモットーとする宗二には、元々「直言癖」がありました。
※簡単に言えば(簡単でもないかもしれんが)、「道理に適っていることは
  正しいが、適っていないことは間違っている」
・・・くらいの意味?
ただ、師・利休に対しては、さすがに直言とはいかなかったようですが、
それでも「茶」に対する師の姿勢には幾分の疑問を呈しています。

そうした「直言癖」は、茶の湯を通じて親交のあった新たな天下人・
豊臣秀吉に対しても例外ではありませんでした。
そのため両者の間に衝突が起きます。
ところが、「権威・権力なんぞは屁のカッパ」の宗二はそれでよくとも、遠慮
なしの言い方をされた当の秀吉にしてみれば、なにせ天下人ということも
あって、少なからずムセッときます。 
その秀吉の顔色を目の当たりにした宗二は、「これはヤバい」と感じたの
でしょう、小田原北条氏の庇護を受けるようになります。
秀吉がキレてしまう前にトンズラを決め込んだということです。

ところが、この後に小田原征伐にやって来た秀吉とばったり再会。 
これには利休の計らいがあったとされていますが、ホントのところは
わかりません。 ただ、利休にはこんな腹づもりがあったとされています。
〜北条家に対する温情対応を、宗二からも秀吉に願い出てくれ〜

この場で、トンズラした宗二に再会した秀吉の方も、おそらくはビックラ
こいたでしょうが、そこはオトナです。
〜やい宗二よ、これまでのことは許したるでよぅ、まあいっぺん(もう一度)
  戻ってこんきゃあ(戻ってこないか)〜
 当然、尾張言葉です。 
宗二もここで、〜有難きシアワセ、感謝感激アメアラレ・・・〜 くらいの
オトナの返事をすればいいものを、根っからの直言居士ですから、
〜北条家には随分お世話になっていますゆえ、そんなことは絶対無理ッ!〜
と突っぱねたようです。

これで頭にきちゃったのが秀吉で、今度こそ宗二の斬首に及んだという
ことになっていますが、もっとも、師・利休の場合と同様に本当の理由は
分かりません。
何しろ対象が「茶人」ですから、そこには公にできない「裏事情」が絡んでいた
とも考えられるところで、「誰にも分かりやすい理由」として北条家に対する
義理立てがピックアップされただけのことかもしれないわけです。

さて、斬首といってもシンプル?な斬首ではありませんでした。
〜耳を削ぎ鼻を削ぎ、メッチャ苦しめた上で最後に斬首〜
聞いただけで身震いしちゃいます・・・チビっちゃいます。
念のためにお伝えしておきますが、小心者の筆者なぞは少なくとも
そういう死に方は希望しておりません。

まさしく「ツッパリ」の権化のような生涯を送った宗二でしたが、実はこんな
創作言葉?も残しています。
茶会に臨む折の心得を示した「一期一会」※がそれです。
※一生に一度きりの機会と心得て、最高のおもてなしをすべきである。

この言葉を初めて耳にしたのは、筆者がお坊ちゃま(幼少)の頃でしたが、
そんな深い意味があるとは夢にも思わず、単に「苺(イチゴ)一円」に
聞こえていました。 
メッチャ安価なイチゴですが、この手の無邪気な誤解を「若気の至り」として
片づけていいものかどうか、今懐かしく回顧しているオトナになった筆者です。



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