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zoom RSS 日本史の「付録」04 頂上決戦は伝統の原っぱで

<<   作成日時 : 2018/01/20 00:01   >>

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現在の行政単位では、その東西十数Kmに渡るエリアを、西から
「岐阜県不破郡関ケ原町」、中央部が「同県不破郡垂井町」、そして、
東域を「同県大垣市」というように厳密な区分けをしていますが、おそらく
昔はこのあたり一帯は丸ごと「広い広い一面の原っぱ」ほどの印象だったと
思われます。

事実、この「一面の原っぱ」の西域を「関ヶ原」(せきがはら)、東域を
「青野原」(あおのがはら)と呼んでいたようです。
実は、このエリアではその昔から「天下分け目の合戦」がしばしば行われて
いるのです。
「一面の原っぱ」なら、大量の兵力動員が可能ということでもあり、その
意味では「大合戦の最適地」?だったということかもしれません。

古くは第38代・天智天皇(626-672年)崩御後の皇位を巡って、太子・
大友皇子
と、それに対して反旗を翻した皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)
との激突現場になったのが西域に位置する「関ヶ原」です。
これが「壬申の乱」(672年)と呼ばれる大戦ですが、もっともこの頃には
まだ「関ヶ原」という地名はなかったようです。

「壬申の乱」は「古代日本最大の内乱」といわれるほどに大規模な合戦でした。
勝者・大海人皇子は第40代・天武天皇となり、その後百年ほどは敗者・
大友皇子の血統を排除する形で、自らの血統、いわゆる「天武系天皇」が
皇位を占め続けることになりました。

敗軍の将・大友皇子※の血統を「お呼びじゃない」状況にまで追い込んだ
のですから、皇室同士の戦いとはいうものの、ある意味「天下分け目の合戦」
だったと言えなくもありません。
※明治政府は大友皇子の即位はあったとして「弘文天皇」を追号(1870年)

この大戦の翌年のこと、勝者・大海人皇子は第40代・天武天皇として
この地に「不破関」(東山道)を、同時に「鈴鹿関」(東海道)、「愛発関」
(後には逢坂関)」(北陸道)、この三つの関所を設けています。
畿内と東国の間の通行を厳重に管理することで治安維持を図ったもの
でした。

ちなみに、以後この三つの関所、いわゆる「三関」より東を「関東」または
「東国」と呼ぶようになりましたから、決戦が行われた地を「関ヶ原」(関所の
ある原っぱ?)と呼ぶようになったのも、やはりこの頃のことなのでしょう。

ですから、「関」を設けた場所は今でいう「軍事境界線(国境?)」もどきの
意味合いがあったことになりそうです。
つまり「関東/東国」とは「未開の地」?という感覚に近いものがあり、
逆に言うなら、こうした「関」より西に位置する「関西」地域こそが
「文明人たる者が住むべき土地」という意識があったのかもしれません。

さて、そうした経緯を踏んだ「壬申の乱」から六百年以上たった「南北朝時代」
(1331-1392年)と呼ばれる頃のこと。
この「広い広い一面の原っぱ」の東域「青野原」で展開されたのが、
南朝方VS北朝方が激突した「青野原の戦い」(1338年)でした。

もっともこの戦い、一見したところでは「南朝VS北朝」ということにはなる
ものの、もっとざっくりとした掴みなら、鎌倉幕府滅亡の後に、天皇親政の
「建武の新政」(1333-1336年)で失政を重ねた第96代(南朝初代)
「後醍醐天皇」が呼びかけた足利尊氏追討に呼応した軍勢と、その標的?
になった尊氏方の軍勢が激突したものと言ってもよさそうです。

で結果は?
この辺りは双方に勝ったり負けたりが繰り返されていて、とても十分な
理解には届きませんが、延べ10日間ほどに渡るこの戦いでコテンパンに
されたのは、どうやら足利方だったようです。
(敗者・尊氏自身はその後の戦に勝利することで態勢立て直しに成功?)

尊氏が北朝「光明天皇」から征夷大将軍に任じられることにより名実ともに
「室町幕府」が成立したのが同じ年(1338年)のことですから、権力が
後醍醐の「天皇親政(直接政治」から尊氏の「武士政権」へ移行した瞬間
だったとも言えそうです。
「青野原の戦い」では負けてしまった尊氏でしたが、逆にそのことにより
奮い立ち、結果として形勢逆転を果たしたのですから、尊氏にとっては、
やはり「天下分け目の合戦」だったことになります。

石田三成61 天皇弘文01










決戦の敗者|石田三成(関ヶ原の戦い)/弘文天皇(壬申の乱)

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さて、初めの「壬申の乱」(672年)から時を経ること千年弱。
同じ「広い広い一面の原っぱ」で再度の大合戦が行われました。
それが、知らない人でも知っているくらいに有名なその名もズバリ
「関ヶ原の戦い」(1600年)です。
(知らない人以外は知っている・・・こちらの表現の方が正しい)

これに至った経緯は、ざっとこんなものでした。
天下人・豊臣秀吉(1537-1598年)の死後、豊臣政権内部はとても一枚岩と
いえる状況にはなく、とりわけ五大老筆頭の徳川家康(1543-1616年)と、
五奉行(五大老より格下)のひとり石田三成(1560-1600年)の間に、
政権運営を巡る厳しい対立が生じます。

「豊臣政権はジ・エンド」と見る家康と、「豊臣政権継続こそ正義」とする
三成の政治認識の違いです。
その対立が数多の紆余曲折を経た末に、最終的には両者の直接決戦と
なりました。 それがこの「関ヶ原の戦い」でした。

後に徳川方は「東軍」、豊臣方(三成方)は「西軍」と呼ばれることになり
ますが、西軍の名目上の総大将には三成ではなく、家康と同役・五大老の
ひとり毛利輝元が立てられました。
重役・家康(255万石)VS中間管理職?三成(19万石)という対決構図では、
「横綱VS十両」ほどの印象になって、いささかカッコウがつかないからです。

以降の経緯は何度か映画・ドラマにもなっているので、割合よく知られて
いるところです。 (ただし、映画・ドラマはあくまでもフィクションですが)
動員軍勢は東軍西軍合せて十数万人だったともいわれる、この
「史上最大級の野戦」は、意外なことにほぼ半日で決着がつきました。 
ご承知の通り、「東軍(徳川方)」の圧勝です。

敗者・豊臣家はこれ以後、勝者・家康によって次第に追い詰められていき、
最終的には滅亡に至るのですが、そうした経緯も映画・ドラマでよく取り上げ
られるので、割合に知られているところです。
(クドくて恐縮ですが、映画・ドラマはあくまでもフィクションですヨ)

これを現代に例えるなら、これまで政権を担ってきた「豊臣政党」が選挙
(当時は戦)で「徳川政党」にボロ負けを喫し、挙句の果てに解党に
追い込まれた、といった感じでしょうか。
誰にも分るほどに実にハッキリとした形で「政権交代」が成ったという意味
では、この「関ヶ原の戦い」もやはり「天下分目の決戦」の一つだったといって
もよさそうです。

こうして眺めてみると、西の「関ヶ原」から東の「青野原」に渡る東西十数Kmに
渡るエリアは、その昔から政権交代の現場だったとも言えそうで、事実
「壬申の乱」→→→天智系天皇から天武系天皇へ(血統の交代)
「青野原の戦い」→朝廷政治から武士による幕府政治への変革
「関ヶ原の戦い」 →積極路線・豊臣政権から慎重路線・徳川政権へ

そこでお話は素っ飛んで、21世紀現代日本の諸野党へのアドバイス。
政党名をやっとこ覚えた頃には、いつの間にか改称されている数多の
諸野党が、その主張通りに打倒自民党&政権交代を目指すのであれば、
「歴史的政権交代」の舞台になったこの地域での選挙圧勝が必須の
要件になるということです。

このことは、ここ千年以上に渡る歴史の流れを掴めば一目瞭然に得られる
結論です。
でも肝心の野党自身はこうした歴史的事実に気が付いているのかしらん。 
まぁこちらの方が問題ですが。

それはさておき、現在の「関ヶ原」には、
〜サムライの里/体感型合戦資料館〜と銘打ったテーマパーク型資料館
「関ヶ原ウォーランド」※が建設されていて、そこには、
〜約1万坪(3万平米)という広大な敷地内にカラフルな等身大の武将像
  240体以上で合戦(関ヶ原の戦い)が再現されています〜
とのことですヨ。 
※岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1710-6

それを小耳に挟んだ自称「歴史ファン」のオジサン、この地を訪れ、
〜フーム、「政権交代の現場」ってのは広いものだなぁ。 
  1万坪っていったら、オレの屋敷の倍ほどもあるじゃないか!〜

自称「歴史ファン」のオジサン族って、根っからのホラ吹き・見栄っ張り系の
人が多いのかしらん?



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