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zoom RSS 日本史の「油断」08 鎌倉殿暗殺事情三代記

<<   作成日時 : 2018/01/10 00:01   >>

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源頼朝が創立したいわゆる「鎌倉幕府」・・・そのトップである「鎌倉殿」の
(征夷大将軍)の座には、当初の間頼朝とその息子達が就きました。
これは血統を重視した方法ですが、よほど日本人の感性にフィットして
いたものか、後の室町幕府(1336-1573年)も江戸幕府(1603-1868年)も
踏襲しています。 ただ鎌倉幕府については、
初代・頼朝(1147-1199年)<満52歳没>のあと、
二代・頼家(1182-1204年/頼朝嫡男/北条政子の長男)<満24歳没>
三代・実朝(1192-1219年/頼朝四男/北条政子の次男)<満26歳没>
までは確かに頼朝の血統が続いたものの、それ以降は摂関家の子弟や
皇族などが征夷大将軍の座に就いています。

なぜって?
三代・実朝が後継者を作る間もなく「暗殺」されちゃったからです。
場所は鶴岡八幡宮、二尺(60センチ)ほども雪が積もる日のことでした。
一通りの公式行事を済ませた後、夜になって八幡宮を退出するところを
襲われた挙句、実朝の首は犯人によって持ち去られたとされています。

念のためですが、「首」が持ち去られたということは、首と胴体は離れ離れに
なったということですから、その情景たるや凄惨極まりありません。
犯人とされた公暁(二代・頼家の息子/実朝の猶子)は同日中に追手に
よって討たれました。

〜親の敵はかく討つぞ〜 犯行時の公暁はこう叫んだとされ、つまりこの
ことは標的・実朝を自分の父親(二代・頼家)を殺した犯人だと名指しして
いたことになりますが、ここから話は少々込み入ってきます。
まず、実朝暗殺が「公暁実行犯」で一件落着かと言えばそうとも決めつけ
られないのです。
なぜなら、「私が公暁である」と名乗ったのは実行犯自身であり、またその場に
居合わせた人間の中には誰一人として公暁本人(その人相風体)を知る者が
いなかったからです。

しかも、犯人・公暁?はその日のうちに殺されちゃっていますから、
ひょっとして「公暁」の名を騙った別人の犯行だったということも考えられない
わけではありません。
その意味では、三代・実朝暗殺事件の「真相」は今もって「闇の中」にあると
言えるのかもしれません。

それはともかく、実朝暗殺犯が〜親の敵はかく討つぞ〜と叫んだ通り、公暁
父親である二代・頼家もまた「暗殺」されているのです。
突然の病を得て半年ほど体調不良にあった頼家は、一時期危篤状態に
陥りました。
その経緯に北条時政(1138-1215年/初代頼朝妻・北条政子の実父)などの
暗躍があったことを知った頼家は即座に時政征伐を決意するものの、それに
従う者はなく、逆に鎌倉殿(征夷大将軍)の地位を奪われてしまいました。 
そこで改めて頼家暗殺のやり直し?です

「やり直し」ということは、最初にあった「突然の病」というのも、言葉を
換えれば、「暗殺(毒殺)未遂」だったということに他なりません。
実際、成功した二度目の「暗殺」も凄惨極まるもので、ざっとこんな様子
だったとされています。
〜(刺客は頼家の)首にヒモを巻き付けふぐり(陰嚢)を押さえつけて制圧し、
  ようやく刺し殺すことができた〜

頼家の抵抗の激しさが並大抵のものでなかったことを物語っています。

おそらく犯人側は、二代頼家の遺児・公暁に対して、この犯行のすべては
三代・実朝が企て、そしてまた実行したものだと吹き込んだのでしょう。
そう聞かされた公暁からすれば、当然こうなります。
〜父ちゃん(二代・頼家)を殺したのは叔父貴(三代・実朝)だったのか。
  この仇はいつか必ず「倍返し」してやるゾ!〜

それが、雪の鶴岡八幡宮における実朝襲撃だったとされているわけです。

北条政子05 源実朝52









後の「尼将軍」北条政子/鎌倉幕府第三代将軍・源実朝

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三代・実朝と二代・頼家がともに「暗殺」に倒れているのであれば、当然
初代・頼朝の死についても「暗殺」を疑いたくなるところですが、しかし通説
ではこれは「事故死」とされています。
〜イベントに出席した帰り道に落馬したのが原因で、その後体調を崩し、
  間もなく亡くなった〜


この説明も疑えば疑えるお話で、実際これより以前に「頼朝暗殺未遂」
疑えるような事件も起きているのです。
後に「日本三大仇討ち」の一つに挙げられることになる、いわゆる
「曾我兄弟の仇討ち」事件(1193年)がそれです。

頼朝が「鎌倉殿」に就いた(1192年)翌年、そして亡くなる7年前のこと
ですが、頼朝は富士の裾野で盛大な巻狩りを開催しました。
ちなみに「巻き狩り」とは、こんな説明になっています。
〜鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、獲物を追い
  つめて射止める大規模な狩猟のことで、多くは遊興や神事祭礼や
  軍事訓練を目的として行われた〜


かねてより親の仇と狙っていた工藤祐経もこのイベント会場に参加して
いることを知った「曾我兄弟」※が襲撃し殺害に至ったものです。
ところが、いささか不可解なことに、この後の兄弟は頼朝の寝所にまで
踏み込んでいるのです。
※兄が「曾我十郎祐成」弟が「曾我五郎時致」・・・ややこしいけど、数字の
  大きい「十郎」の方が兄で、小さい「五郎」の方が弟ということ。

つまり「親の仇を討った」ばかりでなく、「頼朝暗殺未遂」事件の側面も
備えていたことになるわけで、「鎌倉殿」に就いてからまだそんなに間もない
この時期に既に「頼朝暗殺」計画が進められていたとしたら、その最期も
やはり「暗殺」に倒れたものだと受け止める方が自然です。

しかし、武士政権「鎌倉幕府」にとっては金看板であるはずの「源氏」本流の
面々が、なぜ相次いで「暗殺」されなければならなかったのでしょうか?
その答えは明快至極。
いわゆる「鎌倉幕府」の創立趣旨は、武家が従来のように朝廷に隷属する
立場ではなく、そこからの「独立」を目指したもので、そのトップこそが
ほかならぬ「鎌倉殿」です。
だったら、いつの場合も「鎌倉殿」には朝廷に対し武士側の権益を守る
姿勢が求められているということになります。

ところが、そういう観点からすればこの源氏三代の「鎌倉殿」ははっきり
不合格でした。
なぜなら、和歌をこよなく好んだ三代・実朝は、そのことで同好の士として
朝廷とのお付き合いに精を出す有様でしたし、二代・頼家の場合は、
「鎌倉殿」に就任した直後に北条氏などの有力御家人らによって合議制」が
敷かれたことで何らの権力を持ち得ず、明らかにこれに不服の態度を示して
いたほどでした。 これでは「一枚岩の幕府」にはなり得ません。

また、初代・頼朝についていうなら、長女・大姫を入内(天皇家へのお輿入れ)
させるべく躍起になったものの、むしろ手玉に取られる有様でこれに失敗。
「源氏」とは先祖を辿れば「賜姓皇族」ですから、そういう意味では頼朝の
体内に帰巣本能?もどきのものが遺されていたのかもしれません。

要するに、武士政治機構である「鎌倉幕府」が一応の体裁を整えた後の
源氏「鎌倉殿」三代は、朝廷側に摺り寄る姿勢を見せ始めたために、
武士政治の強力推進を願う鎌倉武士団からすれば「無用の長物」、むしろ
「おジャマ虫」の存在になっていたということでしょう。
〜せっかくの武家政権を、腰の据わらぬ「鎌倉殿」によってクシャクシャに
  されたのでは、こりゃあ辛抱たまらんでぇ〜
 といったところです。

こうした解釈は、実は以下の構図では見えにくいものがあります。
〜初代・頼朝の妻が北条政子(頼朝死後「尼将軍」と呼ばれる)であり、
  その間に生まれた男子が二代・頼家であり三代・実朝である〜


ところが、これを逆から眺めると、一連の騒動が割合スムーズに納得できる
のも事実です。
「尼将軍」こと北条政子の夫が初代・頼朝であり、その間に生まれた
  子供たちが二代・頼家、三代・実朝であり、そうした源氏系を排除する
  ことによって政子自身も権力を掌握し、そして実家・北条氏に至っては
  以後長い間の繁栄を享受した〜

事実この後の北条氏は「鎌倉殿」とは名乗れなかったものの、以後その
実質的なトップの座(執権)をその血統により占め続けているのです。

つまりこの解釈でいくと、こんなことにもなりそうです。
〜「鎌倉幕府」創立期に限っては「源氏」という金看板を必要としたものの、
  以後はそれがなくても「尼将軍」北条政子とその実家である北条氏
  よる自立運営が十分可能と判断されるようになり、事実その後はその
  北条氏の代々子孫によってつつがなく維持・運営され続けた〜


極論が許されるなら、尼将軍・北条政子及びその実家である北条氏から
すれば、頼朝・頼家・実朝の源氏「鎌倉殿」三代はジズソーパズルにおける
ピースの一つであり、また「操り人形」であり、さらに別の目線に立てば、それを
放置したままでは、やがていずれかの時点で自分たちに大きな不利益を
もたらしかねない「時限爆弾」もどきの存在になっていたということでしょう。

だからこそ、暴発してしまう前に早目の「処理」を必要としたわけです。
ちなみに、やがては自分たちに大きな災いをもたらすに違いない、この腰の
定まらない危険な御仁たちを、当の「尼将軍」北条政子「源氏爆弾」
呼んでいたとか、いなかったとか?



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