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zoom RSS 日本史の「怪人」17 ♪京の五条の橋の上

<<   作成日時 : 2017/11/10 00:10   >>

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若武者・牛若丸(後の源義経/1159-1189年)と、後にその郎党となった
僧兵・武蔵坊弁慶(生年不詳-1189年)との出会いを、童謡「牛若丸」は
このように歌っています。
〜♪京の五条の橋の上 大の男の弁慶が・・・〜

「太刀収集」?を趣味にしていたのでしょうか、京で千本の太刀を奪う悲願を
立て、通りがかった武者に決闘を挑んでは、それに勝利して相手の太刀の
没収に精を出していたのがこの頃弁慶でした。
999本まで達成し、いよいよ「満願成就」が果たせる最後の「千本目」・・・
その相手が牛若丸でした。

続いて歌詞は対決の結果についても触れています。
〜・・・(牛若丸の)燕のような早業に 鬼の弁慶あや(謝)まった〜
つまり牛若丸が勝利し、敗れた弁慶の「悲願達成」はならなかったという
ことです。
ただ、このお話は史実とは無縁の後世の創作物語のようです。
なにせ決闘場所とされる「五条大橋」そのものがこの当時にはまだ
無かったようですから。

それにしても、創作物語とは言え「太刀の分捕り」にめったやたらと熱心な
この弁慶なる人物はあまりにも乱暴者ではないか。
実はそうでもありません。 その職業?が「僧兵」だったからです。
〜フーム、この時代は僧侶も武装していたのか?〜
こんな感想を漏らすようなら、アナタもまだ甘チャンだ。

コトの真実は全くの逆で、
〜僧兵(そうへい)とは、(中略)僧形の武者である〜
Wikipediaにも、ちゃんとこう説明されています。 
要するに、僧侶が武装していたわけではなく、
〜僧侶の衣装?を纏っていた戦闘自慢の荒くれ者たち〜
ということで、さらに露骨な言い方をするなら、
〜(寺が)暴力団員?を雇い入れ、戦闘に従事させていた〜

ですから、「寺社は武力を持たない平和的存在」・・・現代人が抱きやすい
こうした認識は、幕府の統制がいきわたるようになった江戸j時代以降のことで
この時代には当てはまっていません。
実際、御寺の「僧兵」ばかりではなく、神社は神社で「神人(じじん)」と称した
「武装傭兵集団」を備えていました。
この戦闘集団もまた、施政者などが自分たちにとって歓迎できない方針を
打ち出したりしようものなら、「神輿」を担いでの抗議行動「強訴」を繰り
返していました。

そうした狼藉の一例としては、例えば義経と同時代の平清盛(1118-1181年)
が、この「神人」にイチャモンをつけられた際に、その様子を伺い埒が明かない
と判断した清盛の郎党が、矢を放って脱出した事件(祇園闘乱事件/1147年)
なぞはドラマでも取り上げられることがあって、そのため知らない人以外には
割合よく知られているところです。

また、それより以前には、白河法皇(1053-1129年)のこんな言葉も残されて
います。
〜賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの〜
ここでの「山法師」とは「武装僧兵」を指していますから、
〜ワシの意向や法律さえ無視して振る舞う「僧兵」なんぞは、言語道断の
  「ならず者」だッ〜
 こんなため息をついていたわけです。
要するに、国のトップ「法皇」でさえが大きな嘆きを漏らさなければならないほど
でしたから、その半端でないヤンチャぶりも想像できようというものです。

ですから、ドラマなどで牛若丸に出会った時の弁慶が、いわゆる「七つ道具」を
背負ったガッチガチの重武装姿で登場するのも、当時の「僧兵」の実態を
映し出した一種のデフォルメした風体と言えるのかもしれません。

弁慶と牛若02 山伏51









牛若丸と弁慶/僧兵姿?


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さてその弁慶、これも伝説の類でしょうが、母親の胎内に留まること18ケ月、
二三歳児の体つきをもって誕生したとされています。
もしそうだとしたら、体重だって10キロ以上はあったことでしょうから、さぞかし
「難産」だったと思われます。
そうした尋常ならざる誕生を見せたこともあってか、幼い頃の弁慶「鬼若」
呼ばれていました。
ちなみに童謡「牛若丸」も〜・・・鬼の弁慶あやまった〜と唄っています。

義経の幼名が「牛若丸」、弁慶が「鬼若」。 
二人とも若い頃には若い名前だった。
ですから、はからずもこの主従は名前でも名コンビだったことになりますが、
片やそのガタイの面でも好対照でした。

弁慶は童謡にある通りの「大男」。
これに対し、主人の源義経(牛若丸)の体躯はオトナになってからも、比較的
小柄でしかも割合に非力だったようです。 (一説には身長150センチ程度)
実際これも史実かどうか不明ですが、たぶん、対平家の「屋島の戦い」
(1185年)の折のこと(かと思われますが)・・・自分の弓を海に落とした義経が、
それを必死になって回収したお話が残されています。

では、義経は新しい「弓」を買えないほどに貧乏していたのか?
それとも、美しい自然の海を汚してはいけないと躍起になったものか?
どうやらそういう意味ではなく、落とした「自分の弓」を敵に見られることを
義経が嫌ったためだといわれています。 
要するに、通常の弓より「弱い弓」であるという自覚が義経にはあって、
〜なんだぁ義経の野郎め、こんなチャッチくて軟弱な弓を使っているのか・・・
  これはこれは、まったくのお笑い草だぜ、ウハハのハッ!〜

こんな屈辱を避けるための必死の行動だったということなのでしょう。

ではその義経、ドラマに登場するように「水も滴(したた)る良い男」だったか
といえば、平家側にはそれを否定するかのような証言?も残されています。 
現代語に直せば、こんな具合。
〜義経は(女みたいに)色白で、そんでもって背丈も短い(チビ)男であり
  さらには、前歯が突き出していて、はっきりわかるらしいゾ〜

現代風に言うなら、「反っ歯/出っ歯」系?だったようです。
ただし、「・・・らしいゾ」と言っているのですから、証言者?が直接に目視確認
したわけではなく、いわゆる伝聞ということになります。

そこで義経の肖像画(中尊寺所蔵)とされている絵で確認を試みると、
なるほど「ややくたびれた中年男」風の印象になり、現代人が信じている
ほどの「イケメン」でもなかったかもしれません。 
もっとも、これとて義経が没してから数百年後に描かれた物ですから、
当然のこと、本人を目の前において絵師が写生したわけではないのですが。

逆に「イケメン」に関しては弁慶の方が断然格上だった、つまり
〜弁慶は偉丈夫な上に美男子だった〜とする説もあるようですが、
これもまた「本人目視」?を怠ったままでの推論ですから、あんまり当てには
なりません。
どちらにせよ、主人・義経と郎党・弁慶とは、容姿も体格も、ひょっとしたら
その気性までもが対照的な、凸凹コンビだった可能性もあって、そうしたこと
が、お互いを尊重する気持ちに案外素直に結びついていたことも考えられ
ます。

さて、この偉丈夫な弁慶に関しては、武勇・情の面だけでなく、その名を
使った言葉がいくつかあります。
ですから、弁慶の「日本語」に対する貢献も忘れてはいけません。

例えば、「弁慶の泣き所(なきどころ)」・・・意味は、
〜弁慶ほどの豪傑さえ痛がって泣くような(身体の)急所〜
ズバリ「向こう脛(むこうずね」のことです。
この場所をひょっこり打ちつけたりしようものなら、豪傑の弁慶でさえ痛がる
のですから、そうではない我ら一般庶民なぞは、それはもう目からキンキン星
が飛び出して「のたうち回る」のも無理はありません。

兄・源頼朝との確執から追われる身となった義経一行は、最終的に奥州・
平泉まで追い詰められ、この地で迎えた「衣川の合戦」(1189年)で主従共々
落命しました。
その弁慶の最期の様子から、こんな言葉も生まれました・・・「弁慶の立往生」

この時の義経は、まず妻と幼い娘を殺害しその後に自決したのですが、
弁慶はといえば、主人のその行為をバックアップするために、自ら防波堤と
なるべく、長刀(なぎなた)を杖に橋の中央に立ちふさがり、敵の攻撃を全身で
受けて、立ったまま死んだ(立ち往生)とされています。
この伝説?から、〜進退きわまってどうすることもできない状態〜
「(弁慶の)立往生」と表現するようになったようです。

〜全身に数十本の矢を受けながら、倒れもせず立ったまま死んだ〜
この時の弁慶の様子はドラマなどではよく描かれています。
ところが、実は伝説?はもう一つあるのです。

立ったままの往生ですから、弁慶が既に「死」んでしまっていることに
敵兵は気が付きません。
そこで、それこそ文字通り「矢継ぎ早」に弓を射続け、そうこうするうちに、
思いがけなく、そのうちの一本が「弁慶の泣き所/向こう脛」
深く突き刺さったのです。
その瞬間、弁慶自分が既に死んでいることも「ド忘れ」しちゃって、思わず、
「ギャッ痛ーッ!なんだ、コノヤローッ!」
「弁慶の泣き所」を責められると、それくらい「痛い」ものだという、筆者の
創作伝説でした・・・どうぞ、悪し(足)からず。 



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