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zoom RSS 日本史の「もしも」10 ビビった家康”薩摩”を安堵

<<   作成日時 : 2017/06/25 00:01   >>

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薩摩国島津氏の「当主」?※島津義弘(1535-1619年)は屈指の猛将として
「鬼島津」の異名でも聞こえた人物で、殊に「関ヶ原の戦い」(1600年)で示した
度肝を抜く行動は敵味方双方の語り草になったほどです。 ※異説もあり

本番?「関ヶ原」本戦の前哨戦ともいうべき戦いに備えて、伏見城に籠城する
(東軍)徳川方・鳥居元忠(1539-1600年)の元へ。
本国の事情もあって、この時の義弘が率いることができた兵士は、他藩の
参戦武将たちに比べても割合に少数の1500人ほどだったと言われています。 
〜我が薩摩が援軍にはせ参じましたゾ〜

ところが、〜いいや、家康殿からはその旨を聞いておらんゾ〜
この鳥居からはなんとも素っ気ない返事の上に入城も拒否。
つまりは義弘の本心を疑っていたということでしょう。
この扱いに思わずムッとした義弘は、この直後の「関ヶ原本戦」では、ころりと
方針転換するや、今度は(西軍)豊臣方・石田三成(1560-1600年)の側に。 
ところが、僅かな手勢ということもあって、その三成の扱いもいささか軽い。 

通説では、西軍の作戦会議において、この義弘の提案がボツにされたことで
すっかりヤル気を失ったとされています。
義弘〜なんだぁ、どいつもこいつもこのオレを虚仮(こけ)にしやがって!〜
こんな気分だったとしても無理もありません。

ですから「関ヶ原の戦い」本番?では陣こそ張ったものの、戦いの火蓋が
切られても、頑として兵を動かそうとはしませんでした。(異説もあり)
そんな義弘のところへ、三成の使者から援軍要請が。
義弘〜なんだぁ、三成のバカヤロウ! いまさら真面目に戦う気なんぞは
     ワシにはありゃせんわいッ〜
 すっかり、頭カリカリ状態です。

そうこうする内に、西軍・小早川秀秋が突如として東軍に寝返り、これがため
に周囲の西軍勢はたちまち総崩れの状況に陥りました。 
こうなると、あとは敗走あるのみです。 
しかし、敵の大軍にすっかり包まれ、退路を遮断された形になったのでは、
万事休すです。
まさしく袋の鼠で、さすがの義弘も「もはやこれまで」・・・切腹の覚悟を固めた
ものですが、これは周囲の説得もあって結局は思い留まります。

そこで決行されたのが、後世にも「島津の退き口」として語り継がれる
「敵中正面突破」作戦でした。
具体的には「捨て奸(すてがまり」という戦法で、これは、
〜追ってくる敵軍を殿(しんがり)の小部隊が迎え撃ち、死ぬまで戦う。
  それが全滅すると、また新たな殿・小部隊が入れ替わり、本隊が逃げ切る
  までこれを繰り返す〜


要するに、「トカゲの尻尾切り」もどきのやり方で、本隊が逃げおおせる時間を
稼ごうとする壮絶極まりない戦法です。
ナマで見ていたなら、おそらくチビってしまうことでしょう。

この「捨て奸」戦法で敗走する島津兵を、徳川方の松平忠吉(家康四男)/
井伊直政(彦根藩初代藩主)/本多忠勝(真田信之正室の父)などが追撃
したものの、これを振り切って義弘は脱出に成功。
逆に、指揮官である忠吉と直政に重傷を負わせたばかりか、忠勝には落馬を
演じさせるまでの抗戦を示したのですから、その壮絶さは容易に想像できる
ところです。

参陣の折りは1500名ほど、撤退当初は300人ほどだったとされる中から多数の
犠牲を出しながら、ともかく80人ほどが生きて薩摩へ帰りました。(/諸説あり)
これだけの犠牲を払ったことを考えれば、一見「無駄な行動」だったようにも
見えてしまいます。 ところがドッコイ、結果からすれば「やった甲斐」はあった
のです。

島津の退き口51 島津義弘01







島津の退き口/島津義弘

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この大胆不敵な「脱出劇」をまんまと許してしまったことで面目を潰された
徳川家康(1543-1616年)は、九州諸大名に号令し、3万の軍勢を島津討伐に
向かわせました。 
目の上のタンコブ・島津を、本気になって潰しにかかったわけです。
しかし結局、攻撃命令は最後まで出せませんでした。

なぜなら、「関ヶ原」に主力部隊を送らなかった島津家には1万を越す兵力が
温存され、また逃げおおせた義弘本人も健在だったからです。
〜わずか300人の兵士であってさえあれだけ過激な抗戦をするからには、
  万の兵力ともなればチビるだけでは済まんゾ〜

家康の胸にこんな思いが去来するのは無理もありません。 

徳川家にすれば、逆に薩摩から無言の脅迫を受けているようなものです。
〜うっかり手こずる姿を晒そうものなら、諸々の外様どもがまた反旗を翻す
  やしれんし、ともかく今あれこれ策を実行に移すのは得策でない〜


こうなると、家康も折れて出るほかないありません。
しかし、そこは「タヌキ親爺」ですから、
家康〜今回は義弘個人の行動であって、当主・義久(義弘・兄)が関わったもの
     ではないからして、島津家に処分はしない。 
     それにだ、ワシは昔から義久クンとは仲良しだから、そのことに免じて
     義弘の咎めも無しにする〜


要するに、2年後(1602年)には、島津に対する「改易」を諦めたばかりか、
「本領安堵」という異例かつ苦渋の判決?を下さざるを得なかったわけです。
こと志と違って、この「島津征伐」が不守備に終わったことを当の家康は、
死ぬまで「悔い」ていたとされています。

こう振り返ってみると、もし義弘が「関ヶ原」で切腹し果てていたら、あるいは、
もし「捨て奸」という壮絶な戦いぶりを見せつけていなかったとしたら、「本領
安堵」
という望外な結果は得られなかったと感じられるところです。

しかし、徳川のこうした裁定に薩摩・島津側が感謝の意を示すほど、世の中は
甘い物でもありません。
それどころか、逆に強烈な復讐心?を以後長きに渡り抱き続けました。
そして、その鬱積した感情を爆発させたのが、これからずっと先の「明治維新」
(1867年)ということになります。

なにせ、この時天皇家から「正義の味方」のお墨付きを頂いたのは薩摩側で、
つまりは「官軍・薩摩/賊軍・徳川」の構図になったのですから、それを知れば
家康の口からこんなボヤキも?
〜多少の無理は重ねても、断固として「島津」は潰しておかねばならんかった。 
  忌々しいことだが、ひょっとしたらあの時のワシも「島津の退き口」の壮絶さに
  いささかチビっておったのかもしれんなあ〜




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