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zoom RSS 日本史の「タブー」01 天下人を脅した鬼作左

<<   作成日時 : 2017/04/30 00:01   >>

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徳川家康(1543-1616年)の祖父・清康、次いでその子・広忠、さらには家康と
徳川家三代に仕えた譜代の臣・本多作左衛門重次(1529-1596年)は、特に
武勇に秀でたものがあったことから、「鬼作左」と綽名されたそうです。
その豪胆さは、戦時ばかりか平時においても遺憾なく発揮され、主君・家康
にも遠慮なく諫言した人物としても有名です。

たとえば、こんな具合です。
家康が、医師の話に耳を貸さずに腫物をこじらせて重態に陥った時(1585年)、
そのぐずぐずした姿に業を煮やした作左衛門は、
〜殿は役に立たぬにわか療治のあげく犬死されることよ・・・ならばこの作左、
  お先にお供をつかまつる〜
と言い放つや、切腹の準備にとりかかった。 
これには家康の方が慌ててしまい、シブシブながら治療を受けたために、
なんとか事なきを得た。

その剛直・無骨ぶりはこんなエピソードでも語られています。
「小牧・長久手の戦い」後の1586年のこと、講和の相手・家康を上洛させ、
臣従の誓いをさせるべく奇策をとったのが豊臣秀吉(1537-1598年)でした。
家康の警戒心を解くために、自らの生母・大政所を家康の国元・岡崎に
送り込んだわけです。

言葉を変えれば、秀吉の方が一歩下手に出て、先に「人質」を差し出したと
いうことですから、こうなると、それまでツッパリ続けていた家康とてさすがに
無視もできません。 
そこで、秀吉の意向に沿って上洛を果たしたのですが、この時作左衛門は
岡崎に入った大政所の宿舎に薪を積むというなんとも大胆不敵な行動に
出ました。

〜家康様に万一があれば、大政所様とて無事では済まぬゾ〜といった
ところでしょうか。 天下人・秀吉を向こうに回し、いわば「鬼作左」の方から
逆に脅し?を掛けた恰好です。
この作左衛門の行動に、秀吉は大いに腹を立てました。 そりゃあそうでしょう。
〜オレがシャッキり紳士的に振る舞っとるのによう、なんだァ作左メの
  ヤクザもどきのやりようは!〜
 当然こうなります。

さらには小田原攻め(1590年)の折り、秀吉が岡崎城に立ち寄った際、
作左衛門との対面を予定していたにもかかわらず、これに応じなかったため、
これまた秀吉をムッセムセッの気分にさせたともいわれています。

秀吉とはよほどソリが合わなかったものか、二人の間にはこの他にも数多の
摩擦?が演じられました。
秀吉はこうした不快感を鬱積させ、やがてこのことが「鬼作左」晩年の不遇を
招くことになっていきます。



本田作左衛門重次51 大政所51










本多作左衛門重次/大政所(秀吉生母)

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さて、そうした「鬼作左」の生活態度?について、ずっと後江戸中期の幕府政治
を担った朱子学者・新井白石※(1657-1725年)はこんな評価をしています。
〜作左は恐ろしげに見え、言いたい放題を言い、思慮のあるようではなく、
  奉行など務まる柄ではないように思えたが、心正しく、しかも民を用いるのに
  配慮があり、訴訟をよく聞き事を明らかにした〜


その評価が頷けるのは、下記のエピソードです。
「桶狭間の戦い」(1560年)で今川義元(1519-1560年)が倒れたあと、それまで
今川家の人質となっていた家康が三河の領地を奪い返したものの、その地は
争い事が絶えませんでした。
そこで家康は、奉行の一人として作左衛門を任命しました。

さて、その作左衛門が領内を視察して法度の制札に目をやると、箇条も多い
だけでなく、内容も難解に過ぎ、これでは領民たちにうまく伝わらないと判断
しました。 そこでそれを仮名文字に改め、分かり易い言葉に直した上に
さらには最後の部分でこんな表現を用いたのです。
〜悪いことをしたら作左が叱るゾ〜

どこまでが真実なのか、はたまたどの程度の潤色が加わっているのかは
よく分かりませんが、ともかく領民にとって大変に分かりやすい制札になった
ことで、その後はよく治まったとされています。
分かりやすいということなら、日本一短い手紙として現在にも残るこの一文を
挙げなければなりません。
〜一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ〜

どうやら原文は少し違って、
〜一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく〜
○火事に気を付けるように使用人にも徹底しなさい。
○唯一の息子(跡取り)・仙千代クンの健康に留意しなさい。
○武士が戦場で命を預ける馬の世話は怠りなくやりなさい。

「長篠の戦い」(1575年)の陣中から、自らの留守を預かる妻に宛てて書いた
作左衛門の手紙です。
「鬼作左」と呼ばれるほどに厳しさを備えた人物が書いたとは思えないほどに
妻子を気遣う優しさが窺えます。
また、先の制札と同様に、事のポイントを掴んでそれを易しい言葉で表現して
いますから、その方面では達人だったかもしれません。

ただ、天下人・秀吉はこの「鬼作左」との確執を忘れてはいませんでした。
「小田原攻め」(1590年)の後、家康にこんなことを命じています。
〜なぁ家康殿よ、あんな無礼極まりない奴を放っておいては、格好がつけせん
  じゃにゃァのきゃァ〜
(格好がつかないのではないか?)

今は関白(1584年)の立場にある秀吉の言葉は重い。
家康とて今度は無視もできません。
そうしたことから作左衛門は上総国に隠居の身となり、さらには下総国に
移され、結局その地で亡くなっています。(1596年)
その意味では、穏やかな生活を営むためには、誰であれ権力者に楯突くことは
「タブー」なのかもしれません。

主君にも、時の権力者に対しても「タブー」である歯に衣着せぬ態度を堂々と
貫いた「鬼作左」自身は、相性の悪かった秀吉の惨めな最期(1598年)も、
また逆に主君・家康の晴れの将軍就任(1603年)も、残念ながら見届けることは
できませんでした。

それにしても、簡単にして明瞭な表現です。
〜一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ〜
そこで筆者も早速マネしてみました。 長生きの秘訣です。
〜一筆啓上 歯の用心 息を絶やすな 塩減らせ〜



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