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zoom RSS 日本史の「アレンジ」16 悲運に遭遇!公武合体

<<   作成日時 : 2017/02/25 00:01   >>

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「都市伝説」かもしれませんが、こんなお話が残されています。
ある時、舞踊家イサドラ・ダンカン※1(女性)が、作家バーナード・
ショー※2(男性)にこう言って結婚を申し込んだ。
〜貴男の頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたら、
  どんなにかすばらしい事でしょう〜
 
ところがショーはこう答えて辞退した。
〜私の肉体と貴女の頭脳を持った子供が生まれたら、
  どんなにか大変ですよ〜

※1 モダンダンスの祖と言われる(1878-1927年)アメリカ
※2 「皮肉屋」としても有名な作家(1856-1950年)イギリス


秀でた才能を持つ二人が結婚すれば、その子供は双方の
優れた部分を兼ね備えると考えたイサドラに対し、ショーは、
それとは逆に、劣った部分を兼ね備える可能性もあることを
答えたというエピソードになっています。

ひょっとしたら、幕末日本に登場した「公武合体論」も、この
イサドラの考えに似た発想だったのかもしれません。
〜天皇家(公)の「権威」と幕府(武)の「権力」が合体すれば
  その両方を兼ね備えた超強力な体制ができる・・・はずだ〜


しかし、開闢以来この国の統治を担ってきた「老舗」(天皇家)と、
たかだか二百数十年の経験しか持たない「新店」(江戸幕府)
これが手を取り合おうとするのですから、そこにいろいろな課題
が生じるのも、ある意味無理もないことです。

そしてこの「公武合体」を単なるスローガンとしてではなく、目に
見える形で表現したものが、幕府14代将軍・徳川家茂(1846-
1866年)
孝明天皇(1831-1867年)の妹姫・和宮(1846-1877年)
結婚(1861年)だったのでしょう。
こうした形で結びつくことで、新店・幕府と老舗・天皇家は互いに
補完し合い、独占的で強力な体制を構築した・・・つもりでした。

しかし、当初の目論見とは違って、幕府にとっては意外なことに
この「親戚関係」は必ずしも有利には運びませんでした。
なぜなら、天皇が「義兄」、将軍が「義弟」という関係になったの
ですから、儒教的常識?からすれば、やはり「義兄で年長者」で
ある天皇の方を立てるべきだという見方・考え方になってしまい
ます。

その上下関係?が分かりやすい形で現れた例が、「外国人は
追い払え」とする「攘夷」です。
アメリカから開国を迫られていた幕府は、大老・井伊直弼(1815-
1860年)
の大決断をもって「日米和親条約」締結(1855年)に踏み
切りました。
さらには、後に「安政五カ国条約」と呼ばれることになるアメリカ・
イギリス・フランスロシア・オランダの5カ国ともそれぞれに条約を
締結(1858年)するに至っています。

こうした幕府の方向性を横目に見ながら、大いなる不満を抱いて
いたのが、筋金入りの攘夷論者・孝明天皇です。
ズルズルと開国に押し切られていく幕府に対して、孝明天皇
ギリギリと歯ぎしりをしていたのかもしれません。

そうした最中に新将軍の座に就いたのが家茂だったのです。
〜新将軍には妹姫も嫁がせたのだから、この際なにが何でも
  「攘夷」を貫徹してもらなくっちゃ!〜
 当然こうなります。


公武合体和宮02 公武合体家茂02











皇女和宮/徳川家茂

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孝明〜攘夷じゃ攘夷じゃ、ええか将軍よ、攘夷じゃぞ!〜
家茂〜そんなこと言われましても、お約束できかねます〜
孝明〜それは、この神国・日本に穢れた蝦夷たちを招き入れて
     も良いと言っているのか!〜

家茂〜そんなことは言っていません・・・ただ時流としても
     攘夷貫徹はいささか困難かと感じているだけですが〜


攘夷の実行がなければ、孝明天皇が思う「公武合体」のメリット
はありません。 そこで、
孝明〜ええか、「蝦夷」を「征伐」するのが本来の任務だからこそ
     「征夷大将軍」と名乗っているのであろう。 違うか?〜

家茂〜そう言われればそうには違いありませんが、でも・・・〜
孝明〜ええい煮え切らんやっちゃなあ! だったら、踏ん切りが
     つくように期限を決めて進ぜよう!〜

家茂〜いや、そこまでのご親切(有難迷惑)には及びません〜

こうして将軍・家茂孝明天皇に対して、攘夷の決行期限「文久
3年5月10日(1863年6月6日)」を約束させられてしまってわけです。

つまり、この頃の幕府は「実行不可能な勅命」でさえ拒否でき
ないほど、思っきりガタガタになっていたということです。
かつて神君・家康(1543-1616年)の頃には、政治には口を挟むな
と言わんばかりの態度で、朝廷側に「禁中並公家諸法度」を押し
付けたのですから、それを思えばまさに隔世の感があります。

で、「攘夷決行」の約束はきちんと遵守されたのか?
「攘夷」どころか、今度は長州藩です。
飛び抜けて過激な動きに走るこの頃の長州藩は、どうやら天皇
の親戚?「幕府」を倒すことまで視野に入れていたようです。

「討幕」、この想像だにしなかったあまりな思想に強い不快感を
示した孝明天皇は、一次(1864年)、そしてまた二次(1866年)
渡って「長州征伐」を命じました。 

その「二次」を実施のさなか、遠征先の大坂城で家茂が死亡。 
事態は急転直下です。
そして家茂死去から半年を経ない翌1867年、今度は孝明天皇
が急死。 毒殺が噂されるほどに突然の出来事でした。

こうして「公武合体」の構想は、現実的な成果を見る前に瓦解
してしまったのですが、では「攘夷決行」と同様にこちらも幻の
ものだったのか?

いいえ、個人としての「和宮(公)」と「家茂(武)」は、婚礼後必ずや
「合体」?されたはずです。
ですから、いささか不敬な物言いとはいえ、少なくともこちらの
「公武合体」?については、幻だったとは言えない気がしている
今日この頃です。



 
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