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zoom RSS 日本史の「もしも」09 風前?日本版”アヘン戦争”

<<   作成日時 : 2017/01/20 00:30   >>

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七つの海を跨く「イギリス帝国」を構想し、世界各地に
「植民地」を拡大していたのが19世紀のイギリスです。 
アジアにおいては、清国(中国)を標的とした「アヘン(阿片)
戦争」
(1840-1842年)も、まさにそうした行動の一つでした。

そもそもこの戦争は、清国に対する「輸入超過」の分を、イギリス
側が自国の植民地・インドで製造した「アヘン」を「密輸」すること
で相殺しようとしたことが発端でした。

清国とて、自国民が「アヘン中毒」によってボロボロにされて
いくのを、黙って見過ごすことはできません。 
国家には国民を守る責任があるからです。
〜わが清国にアヘンを持ち込むのはお止めなさいッ!〜
清国がイギリスに対して強い警告を重ねるのは当然です。

しかしそれでも「馬耳東風」のイギリス・・・この対応には清国も
さすがに堪忍袋の緒を切らし、国内に持ち込まれた「アヘン」の
処分に踏み切りました。
※その総量は、なんと「1,400トン」(kgではない!)以上だったと言われる。

ところが、この措置に逆切れしたのが当のイギリスで、
自国の軍事力が優位なことを幸いとして、清国をボッコボコに
痛め付けました。 まさに「暴力団」まがいの振る舞いです。
※イギリス議会のグラッドストンなどは、これを「不義にして非道の戦争」と
  非難したものの、出兵予算案は賛成271・反対262の僅差で承認


結局、清国は完膚なきまでに叩きのめされ、いくつかの都市の
「開港」と香港の割譲(租借地)を認める「講和条約」(1842年)
締結せざるを得ませんでした。
つまり、清国の「海禁(鎖国)」政策はその終焉を迎えたわけです。

そこで、こんな疑問が浮かんできます。 
〜清国と同様に「アジア」にあり、「鎖国」にあった日本に対して、
イギリスはなぜ、日本版「アヘン戦争」を仕掛けなかったのか?〜


アメリカが、日本にアプローチしたのはもう少し後のことで、
言い変えれば、この頃の日本は「外国勢力」に対してほとんど
ノーガードでした。 もちろんイギリスに対しても同様です。

また、実際こんな摩擦も経験したイギリスが「日本」の存在や
その国力を知らなかったわけでもありません。 
○1808年/フェートン号事件
 →鎖国下の日本・長崎港へ侵入したイギリス戦艦「フェートン号」は
   オランダ商館員を人質にとって、水・食料を手に入れるや無傷で逃亡。

〜軍艦一隻にオロオロ慌てふためいた日本の軍事力なんぞは
  見事にヘッポコ過ぎて恐るるに足らぬッ!〜


ですから、今度は清国同様の「日本アヘン戦争」?を仕掛ける
なら、イギリス自身の手で「日本開国」を、また「租借地獲得」を
実現させられたかもしれないのに、そうしなかったことが不思議
といえば不思議です。


アヘン戦争51 グラッドストン51








アヘン戦争/グラッドストン

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ひょっとしたら、「フェートン号事件」の顛末もあって、イギリス側
には、こんな油断があったのかもしれません。
〜日本へ手を広げるくらいのことはいつでもできる〜

あるいは、清国「アヘン戦争」後の「講和条約」(1842年)で、
「香港」割譲を認めさせた実績が、イギリスに多少の満足感を
与えていたことも考えられそうです。
〜香港を租借地にしたことで、アジアにおける橋頭堡は一応
  確保できた。 あとは腰を据えての順繰りで大丈夫ッ!〜


ところが結果として、その間隙を縫う形で日本に接触したのは
アメリカでした。 イギリスが清国に対して「香港割譲」を認め
させた4年後(1846年)のこと、アメリカは東インド゙艦隊・ビッドル
司令官を送り込み、日本開国へ向けての交渉を開始しています。

この時の「開国交渉」は、幕府の頑迷な態度のせいで大きな
成果を上げるには至らなかったものの、ともかく日本政府に
コンタクトできたことは、アメリカにとっても大きな収穫でした。

これ以後、「日本開国」に関しては、アメリカが一歩抜きんでた
存在になっておきます。 その反面で、イギリスは互いに牽制し
合う列強各国の内の一国という立場に追いやられた形になり、
それまでのような「好き勝手」が出来なくなってしまいました。
この「出遅れ」には、内心忸怩たるものがあったでしょう。
〜あっちゃー、こんなはずではなかったゾ!〜

その証拠に、「馬関戦争」で「戦勝国」?となったイギリスは、
「敗戦国」?長州藩に対し、「彦島の租借」を要求しています。
※1863年・1864年/馬関戦争(四国艦隊下関砲撃事件) 
  →長州藩と列強四国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)の武力衝突


この時、敗戦国・長州藩を代表する形で戦後交渉(1864年)
当たったのが高杉晋作(1839-1867年)で、超熱弁?を奮って、
「彦島租借」の要求を断固拒否し切った逸話は有名です。
※ただし、この逸話が真実か否かは不明とされている。

仮に晋作の「断固拒否」が本当のお話だったとするなら、その
背景には、自身が上海へ渡航(1862年)し、清国が欧米列強の
植民地になりつつある現実を目の当たりにした経験があった
のかもしれません。
〜たとえ期限付きであろうと、領土の租借を認めることは、
  植民地化の第一歩に他ならないッ!〜


ですから、結果からすれば、ビッドル艦隊(1846年)、その後の
ペリー艦隊(1853年・1854年)の続けざまの来航は、日本にとっては
ある意味「神風」・・・まことに絶妙なタイミングであり、このことが
あって、イギリスによる「日本アヘン戦争」?は、回避できたとも
言えそうです。

ところが幕府は「アヘン戦争」を横目に見ながら、そのアメリカの
来航を迷惑がって、頑なに拒んでいたのですから、「平和ボケ」
の上に、その「国際感覚」にも疑問符がつこうというものです。

もっとも、江戸幕府のこの時の姿を21世紀・現代日本が笑う
ことはできません。
例えば、隣国・北朝朝鮮の原爆・ミサイル開発に対する対応
一つとっても、すこぶるゆる〜い反応しか示せないのですから、
そんなことをしようものなら、それこそ「目クソ鼻クソを笑う」です。

少々品のない表現ですが、どっこい! これって「ことわざ」と
して使われている由緒正しい言葉なんですよ。 念のため!




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