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zoom RSS 日本史の「列伝」12 ”三法師”その後の流転人生

<<   作成日時 : 2016/06/05 00:01   >>

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派手な形で歴史にデビューしたにもかかわらず、その後に
ついては案外よく知られていない人物もいます。
たとえば、「本能寺の変」(1582年)の後、織田家後継者を巡る
関係者協議(清須会議)の折に登場した「三法師」がそうです。

当初本命と見られていたのは、この本能寺に倒れた織田信長
(1534-1582年)の次男・信雄と三男・信孝でした。
ところが、信長家臣・羽柴秀吉(1537-1598年)の画策によって、
信長の嫡男・信忠のそのまた嫡男、つまり信長の嫡孫に当たる
僅か3歳の「三法師」が急浮上し、結局その座に収まりました。

このあたりの劇的で鮮やかな「歴史デビュー」?ぶりは、
秀吉に抱かれて登場する幼い「三法師」として、ドラマなどでは
よく知られているところです。

しかし秀吉には、この「三法師」を亡き主君の後継者として敬う
気持ちなぞ毛頭なく、逆に「織田家乗っ取り」?に走りました。 
これもまたよく知られた史実です。
では、幼子「三法師」のその後はどうなったのか?

この後(1588年)「三法師」織田秀信(1580-1605年)と名乗る
ことになります。
おそらく秀吉から偏諱を賜る形にしたものでしょうが、秀吉の
「秀」が上で、その秀吉のかつての主君であった祖父・信長の
「信」が下になっていることも、この頃の秀信の立場を象徴して
いる印象です。

つまり、秀吉の実質的に家臣?の立場に置かれた、少なくとも
そのような扱いを受けていたということになるのでしょう。
事実、小田原征伐(1590年)にも参陣しましたが、あくまでも
指揮官・堀秀政の下での働きと受け止められていました。

さて、「関ヶ原の戦い」(1600年)の前衛戦とも言えそうな、自らの
居城・岐阜城の攻防戦(1600年)において、攻め手の東軍・
福島正則に敗れた秀信は異母弟・秀則(1581-1625年)とともに
自刃を決意するまでに追い詰められました。
しかし、周りの者の説得もあったのか、この時の秀信は結局
降伏する道を選びました。

このピンチを脱した秀信は、この後剃髪して尾張国・知多へと
送られ、「関ヶ原の戦い」が終結した後には、高野山への入山
を果たします。
修行目的だったとされていますが、ところがその後にどんな
事情があったものか、今度は山を下り、その直後(1605年)
26歳の若さで死去しているのです。


秀吉三法師51 織田秀信51










 羽柴秀吉+三法師  織田秀信(三法師)

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この亡くなり方もよく分かっていないようですが、いずれにせよ、
秀信には子がなかったため、ここに織田信長の嫡流は絶えて
しまいました。 ※異母弟・秀則は生きていたが嫡流ではない。

ところが、秀信の「高野山入山」という事実からすれば随分と
意外なことですが、この秀信・秀則の異母兄弟は、以前から
キリスト教に入信(1595年)しており、兄・秀信が「ペトロ」、
弟・秀則が「パウロ」という洗礼名まで頂いていたのです。

ですから、「三法師」こと「織田秀信」の流転人生を整理すると、
1580年( 1歳) 織田信長の嫡孫として誕生
1582年( 3歳) 「本能寺の変」後、織田家の後継者に
1588年( 9歳) 「織田秀信」を名乗る

1595年(16歳) キリスト教入信
1598年(19歳) 秀吉の死。 以後活発なキリスト教活動に
1599年(20歳) 岐阜城下に教会・司祭館などを建設

1600年(21歳) 岐阜城の攻防戦で司祭館なども炎上焼失
          「関ヶ原の戦い」、改易、剃髪し高野山へ入る
1605年(26歳) 高野山を下り死亡(病死?自害?暗殺?)

これからも分かる通り、「キリスト教」入信から「関ヶ原」前年まで
の5年ほどは割合熱心に「キリスト教活動」をしていたことになり
ます。 そうした人間が、翌年(1600年)になると今度は一転、
「仏教修行」に目覚めて?剃髪の挙句に高野山を目指したわけ
ですから、これはこれでなんとも分かりにくい行動です。

ひょっとしたら、折角築き上げた司祭館が焼失したことで、
「あ〜あ、ホントなにもかもすべてがイヤになっちゃったなあ」
というガックリ感から、すっかり落ち込んでしまった?
そうであれば、「キリスト教徒」からいきなり「剃髪」という過激な
行動にも一応の説明はつきます。  

要するに、「キリスト教」という自分の居場所をようやく見出し、
教会・司祭館まで建設したというのに、たちまちの内にそれが
「消えてなくなった」わけですから、そのショックから立ち直りを
計るために「改宗」?に走ったという解釈です。 

もっとも、こんな醒めたウラ読みもできるのかもしれません。
〜「クリスマス」を祝った一週間後に「除夜の鐘」を撞いても
  何らの矛盾を感じない最初の日本人だった〜

(なれば、筆者もどうやらその末裔の一人ですが)

それはともかく、印象的な「歴史デビュー」を果たした「三法師」
が青年「織田秀信」になって以降の思想・行動があまりよく
知られていない事実は、結局のところ「血筋の威力」を天下に
毫ほども示すことができなかったことを物語っているのでしょう。

ですから、秀信の揺れた?「信仰行動」こそは、時の権力者に
利用され続けた自らの人生を問い、アイデンティティを探し
求めた姿だったのかもしれません。

もしそうだとしたら、最後には魂の救いを見つけ出せたことを
願うばかりです。
ああ、それなのに、〜キリスト教と仏教をチャンポン信仰しても、
矛盾を感じない最初の日本人〜
なんて、とんでもなく失礼な
ことを申し上げちゃってホントにゴメンね。 反省しています。




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