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zoom RSS 日本史の「油断」04 武家諸法度の三日坊主

<<   作成日時 : 2015/05/25 00:01   >>

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武家の統制を目的とした「武家の憲法」とも言うべき
「武家諸法度」は、徳川幕府初代将軍・家康の命により
二代・秀忠がまとめ上げ(元和令/1615年)、それ以降、次の
ように数度の改訂?が加えられました。

○寛永令(1635年) 三代・家光 →参勤交代/大船の建造禁止
○寛文令(1663年) 四代・家綱 →キリスト教禁教を明文化
○天和令(1683年) 五代・綱吉 →殉死の禁止/末期養子の緩和
○正徳令(1710年) 六代・家宣 →和文体に
○享保令(1717年) 八代・吉宗 →改訂なし(天和令に戻る旨)
※併せて、朝廷公家に対しては「禁中並公家諸法度」(改訂なし)
  同じ頃、寺社に対しては「寺院諸法度」も定めている。


このうち、最後の「享保令」(1717年/八代・吉宗)は実質的な
改訂を行わず、以前の「天和令」(1683年/五代・綱吉)に戻る旨の
宣言に留まったようですから、そうすると三代から六代までの
幕府前半の将軍たちは折に触れ「見直し/修正」作業に取り
組んでいたことになります。
言葉をを変えるなら、”今の時代”に向き合い、必要とされた
事項をこまめに汲み上げる努力を怠らなかったわけです。

たとえば、三代・家光時代における「参勤交代」の明文化なぞは、
将軍家にとっては「諸藩の上に立つ」姿を構築するためにも、
必要不可欠な作業だったのでしょう。
実際それに縛られる諸藩の側にすれば迷惑な話だったに違い
ありませんが、その力の差は歴然で、もはや反抗できるものでは
ないことを宣告する意味もあったわけです。

こうした国内向けの強圧的な「締め」の姿勢と同様に、国外に
向けては、「閉め」の行動に出ています。
同じ時期に「大船の建造禁止」条項まで打ち出した姿勢は、
いわゆる「鎖国路線」を国策とする旨を広く諸藩に申し渡した
ものと受け止めることができます。


武家諸法度絵61 武家諸法度字52









     武家諸法度の提示         武家諸法度の文言

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さらに、四代・家綱の「キリスト教禁教」は、その危険性を肌で
感じていた幕府の慧眼だったかもしれません。
実際、「まあいいか」の寛容さをもって振舞っていたとしたら、
ちょい前の「インカ帝国滅亡」(1533年)の二の舞いという事態
だってあり得たわけですからね。

つまり、この時点で幕府(というより日本国)はこれからの将来を、
異国の動向・干渉・誘惑?に煩わされたり、振り回されたりする
ことのない社会・・・言葉を変えるなら、「自給自足のムラ社会」を
もって日本民族全体が生きていく覚悟を固めたと言えるのかも
しれません。

さて、「ムラ社会」という方向性が定まれば、それを少しでも
居心地の良いものにしたいと考えるのは当然です。
〜だったら、ウチ(幕府)だけが「唯我独尊」の姿勢ではマズイ。
  やはり、お互い譲り合う精神・協調性も必要になろう〜


そう考えた幕府の配慮?が、五代・綱吉の「殉死の禁止」
「末期養子の緩和」でしょう。
狭い「ムラ社会」の中で、お互いが「相手を責め」続けるだけでは
「埒が明かない」うえに「窮屈すぎて不幸」だと考えたわけです。

ですからこの頃の諸法度は、かつて諸藩に「参勤交代」を求めた
三代・家光の姿勢とは、明らかに違ったものになっています。
つまり、力づく一辺倒?の「武断政治」から、譲り合い?もある
「文治政治」への大転換です。

この間、僅か50年足らず・・・ですから、先人達はその時代時代
の要求を吟味し、「武家の憲法」とも言える「武家諸法度」を根気
よく改訂し続けてきたわけですから、現代のどこかの国の
「70年間そのままの諸法度」?とは少し趣が違う印象です。

ただ九代・家重以降の各将軍には、「油断」というか一種の
緊張感欠如が現れ、連綿と継続されてきた改訂作業も行なわ
れないようになってしまいました。 
続かなかったという意味では、結果として、「三日坊主」?だった
と言えるのでしょう。

案の定、そのツケは廻ってきて、幕府の足元は十二代・家慶
あたりから揺らぎ始めます。
百数十年も前(八代・吉宗時代)「古色蒼然?の諸法度」では、
現実との乖離が大きくなりすぎて、とてもじゃないが対応し切れ
なかったということかもしれません。

なにッ、幕府滅亡は「三日坊主」?が遠因だった・・・ってか? 
う〜ん、「三日坊主」ねぇ・・・耳が痛えなぁ!





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