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zoom RSS 日本史の「油断」03 英傑トリオの本願寺介入

<<   作成日時 : 2015/05/10 00:01   >>

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数年前に750回忌大法要を迎えた宗祖・親鸞(1173-1263年)さんも、
ひょっとしたら、その後の「本願寺」の在り方には幾分首を
ひねっておられるかも知れません・・・〜なんでこうなったの?〜

それは「本願寺」と名乗るお寺が京都に二つ、それも割合近い
場所にあることです。 ※いずれも京都市下京区
その上に、つい最近まで両寺ともが正式名称を単に「本願寺」
していたそうですから、その奇妙さは際立っています。
→不便解消?のため、普通は「東本願寺」「西本願寺」と呼ぶ。

で、このようなコンビニ店?もどきの状況になった原因を探って
いくと、意外にも信長・秀吉・家康のいわゆる戦国の英傑トリオ
に行き当たり、順を辿ればまずその一番手は「本願寺」11世
法主
・顕如(1543-1592年)を相手に11年の長きに渡り「石山合戦
(戦争)」(1570-1580年)を繰り広げた織田信長(1534-1582年)という
ことになるでしょう。

ただ、この戦いでは「本願寺」もしぶとい粘り腰を見せ、最終的
には、双方勝ち負けなしの「講和」という形をもって幕を降ろす
ことになりました。(顕如が拠点にした石山本願寺はこの直後に焼亡)

この後に多少の経緯があって、顕如の長男・教如(1558-1614年)
と三男・准如(1577-1631年)の異母兄弟の対立が表面化した折に、
すばやい行動を見せたのが、弟・准如の生母でした。
ここからが第二幕?となりますが、准如の生母はなんと時の
権力者・豊臣秀吉(1537-1598年)に泣きついたのです。

その甲斐あって、寺地の寄進と念願の「本願寺12世法主准如
の名を手にする(1593年)ことはできましたが、信長と戦った
父・顕如ほどの気骨は感じられず、むしろ天下人に擦り寄った
姿勢モロにみせることになりました。

これで「本願寺」が落ち着いたかといえば、そういうわけでも
なく、秀吉の死後、今度は天下を握った徳川家康(1543-1616年)
動き出しています。
寺領を寄進(1602年)し、「本願寺」にあった堂舎を移した上に、
さらには他寺から「親鸞上人像」を迎えたばかりか、法主競争から
脱落したはずの兄・教如をもう一人の「本願寺12世法主」として
迎えたのです。

つまり第三幕目として、ここに権力者主導で「弟・准如法主(西)」
と「兄・教如法主(東)」、二つの「本願寺」が誕生?したことになる
わけです。
しかし、なぜまた家康はこんな「親切心」?を見せたのか・・・
これには諸説あるようですが、家康の「体験」を重視するなら、
こんなことも考えられるのでは?


三英傑51





 本願寺”牙抜き”トリオ   織田信長  豊臣秀吉  徳川家康

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若い頃の家康は「本願寺」信徒の一揆に悩ませられたばかりか、
あわや落命寸前まで追い詰められた経験をしています。
それに留まらず、「本願寺」の武力にさんざん苦しめられた
アニキ分?信長の姿も間近で見続けてきたのですから、こうした
家康の深層心理に「本願寺の牙抜き」の思いが育っていたと
してもそれほど不思議ではありません。

もうひとつ?の「本願寺」を作ることで、世間にはこんな疑問を
抱かせることができるはずだ。
〜二ツもあるけど、ふ〜む、いったいどっちが「本物」なの?〜

こうなれば、どちらもが己の正当性の主張に大きな労力を費や
さざるを得なくなり、結局のところその分「本願寺」の外向き
パワーは必然的に小さくなる。 
「本願寺恐るべし」の体験を持っている家康にすれば、これは
これで大きな安心であり保険です。

ありとあらゆる手練手管をもって豊臣家を滅亡へ追い込むことも
した家康が、こと「本願寺」に対してだけは「まったくの善意で
動いた」・・・とは少しばかり考えにくいような気がします。

それならそれで、「本願寺」側も、秀吉・家康のこうした好意?に
対してそれなりの疑念を持てばよかったのでしょうが、どちらも
「12世法主」の名乗りに目が眩んでいたのか、風呂敷並みの
「油断とスキ」を広げていたことになりそうです。

こうした事実が積み重ねられた結果、両寺ともが我が「本願寺」
の正当性を死守する必要に迫られることになりました。
由緒あるこの「本願寺」という寺名の頭に、うっかり「東」だの
「西」だのを付ける、あるいは別の寺名にしようものなら、
世間からは本物の「本願寺嫡流」?とは見てもらえなくなる
心配も出てきますし、そうなると肝心の「12世法主」も名乗れなく
なってしまいますからね。

つまり、これ以降両寺が「本願寺」の名称にこだわり続けたという
事実は、タイミングを見計らった家康の「介入」、つまり「互いを
牽制させあう」作戦が、見事に功を奏したということなのかも
しれません。
その意味では、家康はやっぱり「狸オヤジ」(違った!)慧眼を
備えた「政治家」だったと言えるのでしょう。

こうした流れを振り返ってみれば、この「本願寺」に限らず、
それまで政治のガンになってきた“戦闘的宗教勢力”という
存在は、信長・秀吉・家康の戦国トリオによって見事なまでに
「牙抜き」?されてしまったことになります。 
※この時代の寺社はほとんどが”戦闘的宗教勢力”

現代日本に「イスラム国(ISIL)」?もどきの超過激派宗教勢力が
存在していないのも、突き詰めればその昔にこの英傑トリオ
よる「政治介入」があったお陰?なのかもしれません。
〜ええか、英傑トリオに「足を向けて寝る」ではないぞ!〜

          


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