ヤジ馬の日本史

アクセスカウンタ

zoom RSS 日本史の「女性」16 救出50年の鎮魂半生

<<   作成日時 : 2014/12/05 00:01   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

戦国時代で最も有名は姉妹といえば、織田信長の妹・お市と
浅井長政の間に生まれた、いわゆる浅井三姉妹(茶々・初・江)
を挙げる方も少なくないのでは?
後に、長女・茶々は豊臣秀吉の側室(淀殿/1569-1615年)となり、
三女・江(1573-1626年)は徳川家康の息子・秀忠に嫁いでいます
から、敵味方に分かれた姉妹という立場も関心を呼ぶのかも
しれません。

さて、その秀吉(1537-1598年)は台頭する家康(1543-1616年)
牽制し、自分が死んだ後の豊臣家を磐石にするためにわが子・
秀頼と家康の孫娘・千姫の、つまり”淀殿の息子”と”江の娘”の
結婚を遺言しました。 これには“徳川方から人質を取る”という
意識もあったものと想像されます。

ただ、これが実現したのは家康が将軍に就いた年(1603年)のこと
ですから、すでに「人質」という意味合いも薄れていましが、
とにもかくにもその年に、秀頼11歳(1593-1615年)、千姫わずか
7歳(1597-1666年)の幼いイトコ同士のカップルは誕生しました。

それからほぼ十年の後、豊臣と徳川は事実上の対決へ・・・
「大阪冬の陣」(1614年)と引き続いて翌年に展開された「夏の陣」
(1615年)がそれで、この時、当の千姫は実家・徳川方の手に
よって大阪城内から“救出”?されたものの、夫・秀頼とその母・
淀殿は自害に追い込まれています。

このあたりの経緯については諸説あるものの、この“千姫救出”
自体は割合よく知られているところです。
ところが千姫の「その後」になると知らない人もいるようで・・・
実は、かく申すワタシもその一味なのです。

そこで、秀頼自害後の千姫の履歴?をちょいと箇条書きにして
みると、意外?にも波乱万丈で、
○イケメン大名・本多忠刻と再婚(1616年)
○本多家移封に伴い、姫路城に居を移す(1617年)
○長女・勝姫誕生(1618年)、長男・幸千代誕生(1619年)

つまり再婚を果たし、デッカイ新居にも引っ越し、子宝にも恵まれ
という具合でこの頃は比較的幸福な生活を送っていたようです。
ところが、その幸福が長く続くことはありませんでした。


画像 画像 










         豊臣秀頼                  千姫

  応援クリックは→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ  ↓コメント欄はいちばん下↓

一転、今度は大きな不幸が続きます。
○長男・幸千代の死(1621年)
○この頃何度か流産を経験?
○夫・本多忠刻が結核により31歳で急死、さらに忠刻の実母と
  自身の実母(江)の相次ぐ死(いずれも1626年)
つまり、身近な人たちがバタバタと亡くなっていったわけです。

続けざまのこの不幸を千姫自身はどのように解釈したのか?
おそらくはこうこう受け止めたのではないでしょうか。
〜自分が“救出”されながら、その大阪城で果てるに至った
  「秀頼様の祟り」に違いない〜

元々「慙愧の念」を強く抱いていましたから、その思いに拍車を
かけたとしても不思議ではありません。

とりわけ、これまで若くて健康だった夫・忠刻の急死は、まさに
“アンビリーバボー”な出来事で、千姫にとてつもない大きな
精神的動揺を与えたようです。 この後に落飾し尼になる道を
選択していることがそれを示唆しています。

〜並みの供養で 「秀頼様」 の怨念は晴れるものではない。
  私はもう終生 「秀頼様 の祟りから逃れることはできない〜

そこで世俗の生活を諦め、これ以上の不幸を招くことのないよう
秀頼供養に専心する意思を固めたということでしょう。
ですから、千姫(天樹院)の”救出後50年”の半生は、秀頼供養の
ための時間だったとも言えそうです。

しかも実はその後にも、こんな「すれ違い」?もありました。
自分の弟・家光(三代将軍)の厄年の時の子だったために、
その災厄を避ける意味で、家光三男・綱重(1644-1678年)
養子に迎え、一緒に住むようになりました。
が、実はこの綱重も35歳の若さで亡くなっています。

これがもし存命中の事だったら、千姫はまた「秀頼様の祟り」
を思い出すことになったでしょうから、家族・綱重の死を知ること
なくこの世を去ったのは、ある意味幸いでした。 

こうした話の流れからすると、千姫の前半生は政権抗争の波に、
救出後50年の後半生は「秀頼様の祟り」に翻弄され続けたもの
だったと言えるかもしれません。

蛇足ですが、千姫は「戦国一の美女」であった祖母・お市の方の
美貌を引き継いだものか、大層な“美人”だったとされています。

つまり、お市の娘たち「茶々/初/江」もそうなら、さらに千姫を
含めたその娘(お市の孫娘)たちも、その通りだったに違いないと
見ていることになりますが、でも”美貌”ってそんなに純粋・素直
に受け継がれるものか、この辺は少し疑問に感じるところです。

ひょっとしたら、こうした評判?自体が亡くなった女性に対する
”鎮魂”の心情が働いているような気がしないでもありません。
※ええか、決して”千姫は不美人だった”と言っているわけではないゾ!



  応援クリックは→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ  ↓コメント欄はいちばん下↓
         



−−−これまでの 「女性」 シリーズ−−−−−−−−−−−−−−−−
226 日本史の「女性」15 兼任皇后?の神出鬼没 鮮やかな復活劇の事情
203 日本史の「女性」14 ゴースト絵師?失踪す 親父絵師と二人三脚?
190 日本史の「女性」13 正室は知っていた! 公然の秘密は秘密じゃない!
168 日本史の「女性」12 消された?正室・濃姫 何もかもが不明とは?
159 日本史の「女性」11 忘れた頃の”女性天皇” 僅か七歳で即位とは?
135 日本史の「女性」10 何が正室に起こったか? 特別葬儀の真相?
110 日本史の「女性」09 未開人への好奇心 女を王とするトンデモ野蛮人?
102 日本史の「女性」08 信玄の血は残った 70歳と17歳、異色のカップル!
090 日本史の「女性」07 カカア殿下は先祖がえり? 知られざる女性パワー!
084 日本史の「女性」06 幼な姫のトラウマ 六歳で婚約、幸薄き短命人生!
074 日本史の「女性」05 宮廷の不都合な真実 どこから見たら”雅”なのだ!
064 日本史の「女性」04 歌舞伎女優の落胆 見過ごされたワンチャンス!
054 日本史の「女性」03 呪詛と空前自害 将軍を取り巻く気性激しき女性達!
047 日本史の「女性」02 お江の将軍構想 お江VS家康、嫁と舅の丁々発止!
043 日本史の「女性」01 禅尼の動機 執拗な助命嘆願、その真意はどこに?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ヤジ馬の日本史〜超駄級・200記事一覧〜 前編「あ→と」巻 七転び八起き!
ヤジ馬の日本史〜超駄級・200記事一覧〜 後編「な→ん」巻 あゝ七転八倒!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
日本史の「女性」16 救出50年の鎮魂半生 ヤジ馬の日本史/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる