ヤジ馬の日本史

アクセスカウンタ

zoom RSS 日本史の「女性」05 幼な姫のトラウマ

<<   作成日時 : 2012/07/30 11:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 1 / コメント 2

亡くなったのは二十歳、現在の数え方なら十九歳です。
父は源頼朝、母は北条政子、その長女・大姫の二十歳の死の
責任は、父親・頼朝が負うべきかもしれません。

それは、こういうことです。
「源氏」の中での主導権争い、頼朝は木曾義仲(頼朝のイトコ)と
対立していましたが、1183年に至って義仲は嫡男・義高を人質
として頼朝に差し出しました。 この時代にはよくあることです。

これを受けて、頼朝は義仲との和睦のためにこの義高と大姫の
婚約を結ぶことにするのですが、とは言っても義高十一歳、片や
大姫にいたってはわずかに六歳のことです。

簡単に言えば、この時期の頼朝は、源氏に対峙する巨大な敵・
平家の動向もにらみつつ、源氏の中での主導権争い、一族の
勢力拡大に腐心する立場にいたことになるわけです。


画像 頼朝自身が、手練手管も戦さも他の
 ありとあらゆる方策を必要としていた
 時期ですから、おそらく幼い大姫に
 とっては家庭・家族を実感できる環境
 ではなかったことが想像されます。

 ここからは推測になりますが、
 その意味では義高を迎えたことで、
幼い大姫は生まれて初めて自分が愛情を注げる「家族」を
見つけたのではないでしょうか。

同年齢の家族がいないのですから、心の底から甘えられ、
安らぎを感じられる「家族」が、この義高だけだったとしても、
それほど不思議なことではないような気がします。

一応は「婚約」の形をとってはいますが、わずか六歳の大姫に
してみれば、その感情は「いいなずけ」というより、むしろ
「大好きなお兄ちゃん」に近いものだったと想像されます。

しかし、ここからが大姫の痛々しい人生の始まりでした。
頼朝と義仲の和睦関係は一転し破綻、挙句にその戦さで義高
の父・義仲が滅ぼされます。 
これが婚約和議が成立した翌年のことで、同時に頼朝は鎌倉に
いた「人質・義高」の殺害も決意します。 

そりゃあ、そうかも知れません。
こういう時のための「人質」であり、また生かしておいては将来
に禍根を残すことになります。 
伊豆流罪になった14歳の頼朝自身が「生き延びた」からこそ、
いま平家に復讐しようとしていることを思えば、頼朝にとって
義高を「生かしておく」という選択肢はなかったのでしょう。

さて、この後にどんな経緯があったものか、ともかく、この時の
頼朝の「決意」が侍女を通じて大姫にも事前に伝わっていたと
されていますし、事後の「義高死す」の知らせもまた大姫の耳に
届いたとされていますから、大姫のショックは余計に大きかった
と思われます。

「大好きなお兄ちゃん」の命を奪ったのが自分の父・頼朝である
ことを知ったわずか七歳の大姫にとって、この「心の傷」はあまり
にも大きすぎたようです。

「水も通らなくなった」と伝えられていますから、もはや魂の抜け殻
同然の状態だったのでしょう。
義高への思慕が断ち切れないまま、その後の大姫には病の床が
続くことになります。

さすがの頼朝も政子も、大姫のこの変り様には驚きました。
身に覚えがあるだけに内心には「義高の祟り」との思いもあったの
かも知れません。 

義高に対する供養・祈祷なども熱心に行っているところをみれば、
多分そうだったのでしょうが、それでもこのことが大姫の心の慰め
や病の回復につながることはありませんでした。

十年後、一時小康状態になった大姫に頼朝は縁談を勧めます。
大姫十七歳の時。 伴侶を得ることが回復のキッカケになればと
願う親の気持ちだとすれば、これは分からないでもありませんが、
しかし、本当にそうだったのでしょうか?

大姫はこの縁談をきっぱり拒否した、とされています。
「そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシです」
大姫にしてみれば、伴侶を得る「喜び」よりも、再び失うことの
「恐怖心」の方がその何倍も強かったということなのでしょう。

現代風に言うなら、「トラウマ(心的外傷)」です。
ところが、この大姫の「死ぬより辛い」思いが、どうも頼朝にはよく
理解できていなかったのではないかと思われます。
なぜ、そんなことが言えるのか?

実は、この流れで続けざまに「大姫・入内工作」に当たっている
からです。 平家も滅ぼした、征夷大将軍にもなった、今度は
天皇家の親戚になりたい。
父親・頼朝にはこんな野心が芽生えていたものと思われます。 

ところがこの頼朝の努力?は、朝廷・公家のお歴々に軽く手玉に
取られる有様で、結局のところ「入内工作」は散々の失敗に。
そして、当の大姫は再び回復の様子を見せることもなく死去。
1197年、大姫二十歳のことです。

事前事後の経緯のすべてが大姫に筒抜けになっていたこと、
また娘の「心の傷」にまったく理解が及んでいなかったことなど、
この悲劇の原因はすべて父親・頼朝の「大失策」によるものと
言ったら酷でしょうか?
※スキだらけの「頼朝像」については、以前 〜四人目の英傑〜にも書きました。

若くして亡くなることには、まことに辛く悲しいものがあります。
家族にそのような思いをさせたくないワタシは、「大姫よりは長く、
せめて120歳までは生きていてあげよう」と決意しているのです。
ですから、今からウォーキングに出かけます。 ではゴメン!


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
〜日本史の「女性」04一世風靡と落胆〜 生かせなかったワンチャンス! 
〜日本史の「女性」03呪詛と空前自害〜 将軍を取り巻く気性激しき女性達
〜日本史の「女性」02お江の将軍構想〜 丁々発止!家康VSお江の討論
〜日本史の「女性」01禅尼の動機〜 熱心な助命嘆願はなぜ?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

あなたの1日1クリックで!→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←勇気凛々瑠璃の色!

あなたのホンネも→ 5バツグン 4よろしい 3まあまあ 2イマイチ 1スカタン
              〜励みになります。ご協力ありがとうございました。〜

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
日本史の「女性」11 忘れた頃の”女性天皇”
一時期、「女性天皇」が話題に上がったことがありましたが、 では、これまでの「女性天皇」についてなにかご存知ですか? なんとなく、古い時代には少し多目だったかな?程度の印象は あっても、あまりよく知らないと言うのが正直なところでしょう。 ...続きを見る
ヤジ馬の日本史
2013/08/15 08:51

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ウォーキング頑張っているのですね
媛ちゃん
2012/08/02 07:52
「媛ちゃん」さんへ。
励ましありがとうございます。
でも、過激な運動は身体に毒ですから、ウォーキングも暑い日・寒い日・雨の日・雪の日・風の日・花粉の日・仏滅・十三日の金曜日・気の向かない日などは、もっぱら室内でのイメージ・トレーニングに留めています。
世の中そう甘いものでもなく、120歳まで生きようとすると、この程度の気配りは必須のようですヨ。
住兵衛
2012/08/02 18:05

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
日本史の「女性」05 幼な姫のトラウマ ヤジ馬の日本史/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる